2020/07/27

引っ越しの変遷Part.3

1984年の初夏、ぼくは世田谷の野沢から経堂に引っ越しをしました。
今回はそのあたりのことを。

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野沢のマンションを出ると決めた時から、ぼくは駒沢や三軒茶屋、下北沢などの不動産屋を何軒も訪ね歩いた。
今のように手軽にインターネットで検索出来るような時代ではなかったので、ひたすら足で探すしか無かった。それでもなかなかこれはという物件に巡り会うことは出来なかった。

ある日ぼくは三軒茶屋から出ている二両編成の世田谷線に乗って、山下駅で降りて豪徳寺あたりの不動産屋を訪ね回ってみた。 このあたりは野沢とは違ってとても静かで、大きな家もたくさん立ち並ぶ閑静な住宅街だった。
世田谷線で三軒茶屋からでわずか10分ちょっとしかかからないところなのに、ぼくは随分と遠くまで来てしまったような気がしていた。

数件目に訪ねた世田谷線松原駅近くの不動産屋で、興味をそそられる物件があった。ぼくはその部屋を見せてもらうことにした。

目当ての部屋は小田急線の経堂駅から徒歩10分弱ぐらいのところにある、建物の一部が赤堤通りに面した五階建ての少し古びたマンションだった。

ぼくは不動産屋さんとそのマンションの狭い階段を上って、三階部分にある部屋を見せてもらった。 玄関ドアを開けるとすぐに10畳程のリビングがあって、左手に3畳程度のキッチン、反対側に8畳の和室と、5畳ぐらいの洋室がある2LDKの間取りの部屋だった。
加えて洋室のベランダ部分には、2畳程度のガラス張りのサンルームが付いていた。

ちょっと建物は古いけど、ぼくはこの部屋が気に入った。家賃も手頃な値段だったのと、だんだんと部屋探しに疲れてきたこともあって、もうこれ以上他の部屋を内見することなく、ぼくはこの部屋を契約することにした。

部屋が決まるとすぐに引っ越しの準備に取りかかった。Mくんに引っ越すことを告げると彼は憮然としていたが、またもすでに決めてしまったことだったので、Mくんには申し訳なかったが、どうにか納得してもらった。

ぼくは2トントラックを借りて、何回かに分けて野沢と経堂を往復した。野沢から経堂までは環七から赤堤通りを経て車で約30分程の距離だった。
引っ越しの日にはバンドのメンバーも助っ人として来てくれたおかげで、大変だったけど業者に頼むことなく引っ越しを完了させることが出来た。

初めて住むことになった世田谷区の経堂という街は、同じ世田谷区内とはいえ、辺りにはまだ畑が点在する落ち着いた場所で、野沢からは随分と奥に引っ込んでしまったような気がした。
野沢に住んでいた時は、電車は東急新玉川線を利用していて、渋谷から駒沢大学駅まで10分程度の距離だったのが、経堂までは新宿から小田急線で20分ぐらいかかるようになった。しかも当時は急行が経堂駅には停まらなかったので余計に遠くに感じた。

車で移動する際も、野沢の時は環七の内側に住んでいたのが、経堂に来て環七の外側になった。と言うか経堂のマンションからはもう環八のほうが近いくらいだった。
マンションの前を通る赤堤通りから大きな幹線道路に出るまでには、赤堤通りが片側一車線の道路だったこともあってか、結構時間がかかるので、都心に出るのはかなり不便を感じるようになった。
それでも経堂の駅前にはそれなりにお店もたくさんあって、生活するには何不自由することはなかった。

しかしいざ実際に住んでてみると、古いマンションのせいか、両隣と上の階からの生活音がいろいろと聞こえて来て、当時昼夜逆転のような暮らしをしていたぼくは、生活音が気になってよく眠れなくて、だんだんとイライラするようになっていった。

それとこれも住んでみてから分かったことなのだが、マンションのすぐ近くに牧場があって(四谷軒牧場。1984年当時は経堂に牧場があった。翌年の1985年に閉鎖。)牧場からの独特の匂いが部屋まで忍び込んで来て、段々とそれも気になるようになって来た。
後日その牧場に行ってみるとちゃんと牛がいた。ぼくは東京23区内に牧場があることに驚いた。

仕事のほうは、The Fuseが消滅して新たなメンバーで臨んだ、横浜スタジアムでの「A place in the sun」を終えて、すぐに浜田省吾さんのニューアルバム「Down by the Mainstreet」のレコーディングが始まった頃で、ぼくは経堂から河口湖のスタジオや、信濃町や六本木のスタジオに足繁く通った。

「Down by the Mainstreet」収録の「Pain」は、この部屋の洋室にこしらえた仕事部屋でアレンジ作業をした。Painは一度河口湖でベーシックトラックを録音したのにも関わらず、後日そのテイクはボツになってしまった。

Painの他にも「Money」も河口湖でのテイクはボツになった。
ぼくはもう一度頭をニュートラルにして、Painのアレンジを考えることにした。 どこが良くなかったのか、またどこを変えれば良くなるのかをじっくりと考えてみた。

するとだんだんと闇の隙間から光が差し込むような感じで、少しずつ新たなアレンジが出来上がって来た。 イントロの出だしの部分のコードを「F#m add9」という物悲しい響きのするコードに変えたことで一気に視界が開けて、それから先はさほど苦労することなくアレンジを完成させることが出来た。リアレンジしたPainのレコーディングは、今度は順調に終えることが出来た。

経堂に引っ越す前にぼくは車を買い替えた。今度の車はホンダのバラードCR-iという4ドアのスポーツセダン。経堂のマンションの裏に駐車場を借りて停めていた。

「Down by the Mainstreet」のレコーディング中に、ぼくは不注意から仕事部屋の机の角にこれでもかというくらい足をぶつけて、足の小指を骨折してしまった。
幸いなことに骨折したのは左足だったので、オートマチックの車を運転するには支障が無く、ぼくは松葉杖をつきながらレコーディングスタジオに通った。
スタジオでも左足骨折が幸いして、ピアノのペダルを踏むのにはやはり支障がなく(ピアのサスティンペダルは右足で踏む)なんとか演奏することが出来て、ぼくはホッと胸を撫で下ろした。

経堂で暮らすようになって約四ヶ月が経った頃、ぼくは経堂のマンションを引き払うことにした。 理由はやはりちょっと不便なことと、其処彼処から聞こえて来る生活音に耐えられなくなったからだった。

たった四ヶ月しか住まないで部屋を出るのはかなり金銭的にも痛かったが、精神的にも参ってしまっていたので、瀬に腹は代えられなかった。

たちまちぼくは引っ越し貧乏になった(笑)

続く。

アルバム Down by the mainstreetのレコーディング風景。
at 河口湖スタジオ1984

2020/05/19

引っ越しの変遷Part.2

1981年の夏、ぼくは千葉の市川から目黒の大橋に引っ越しをしました。
今回はそのあたりのことを。

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大橋に引っ越したぼくは、一人暮らしにちょっぴり不安になりながらも、初めての都会暮らしに胸を躍らせていた。
念願叶った一人暮らしだったが、浜田省吾さんのツアーで一年の大半を旅先で過ごすことが多くなって、あまり家でのんびりしていることは出来なかった。

ちょうどこの頃、浜田省吾さんの武道館ライブの前哨戦とも言える、新宿厚生年金会館でのコンサートが行われた。
新宿厚生年金会館でのコンサートは1981年4月8日と、追加公演として14日にも行われた。二日ともとても素晴らしいコンサートだったと、来場してくれた方々からお誉めの言葉をいただいたいて、ぼく達もとても嬉しく、手応えも感じていた。

追加公演の終わった夜、会場近くでの打ち上げの後にメンバーとスタッフ、そしてイベンターまで一緒になって、歌舞伎町のボーリング場に繰り出した。
みんな打ち上げでしこたま飲んだ後だったので、ベロンベロンに酔っぱらいながら朝までボーリングをした。そこにいた誰もがまだ家に帰りたくなかった。朝の7時ぐらいまでボーリングをやって、ぼくは大橋の部屋に帰ってから夕方まで爆睡した。

81年の5月にはツアーの合間を縫って、バンドのメンバーだけで4泊5日のグアム島旅行に行った。
NHK-FMの公開録音番組の収録が終わった次の日、23日に日本を脱出して常夏のグアムに向かった。

宿泊したのはパシフィックアイランドクラブというホテルで、敷地内に独立したコテージが転々と立ち並び、目の間にはビーチが広がるとても快適なホテルだった。
ぼく達は泳いだり、レンタカーで島内を一周したり、輸入盤のレコードを買い漁ったりしてつかの間の休日を楽しんだ。

ドラムの俊ちゃんこと鈴木俊二くんと、憧れのドラマーであるラス・カンケルの演奏が聴きたくて、日帰りで名古屋までジョー・ウォルシュの公演を観に、東京から車を飛ばして行ったこともあった。若さ故そんな無茶なことも全然平気だった。

蒲田電子工学院ホールで行われた、ベースの江澤くんがバンドに加入して初のライブとなる、テレビ神奈川「ファイティング80’s」に出演したのも大橋に住んでいた頃だった。

結局、大橋の1DKの部屋には約1年数ヶ月住んだ。

甲斐バンドの楽器担当のローディだったMくんとは、ぼくが甲斐バンドのサポートを辞めて、浜田省吾さんのバンドに加入してからも仲良くしていた。Mくんは島根の出身で、彼が広島のとあるイベンターでバイトをしていた時に、浜田さんの中国地方のツアー担当だったこともあって、Mくんは浜田さんや町支さんとも旧知の間柄だった。

ぼくが浜田さんのバンドに加入した頃、Mくんは甲斐バンドのローディを辞めて、PA会社に就職してPAオペレーターに転身していた。
そんなことから、彼はよく浜田さんのコンサートの現場にも顔を出すようになっていた。

ぼくもMくんも狭い部屋で暮らしていることにフラストレーションが溜まりだしていて、ある日、彼と電話で話している時にルームシェア(当時はこんな言葉は無かったけど)の話題になった。今払っている家賃とそう変わらない値段で、もっと広い部屋に住めたら良いね、ということになってトントン拍子に話は進み、ぼく達は早速部屋探しを開始した。

ぼくとMくんはルームシェアをすることになった。

ぼくが住んでいたのは目黒の大橋、Mくんは杉並の高円寺に住んでいた。お互いに利便性が良くて、交通の便も良いところで決めたのが世田谷の野沢だった。
浜田さんの春のツアーが終了して暫くした1981年の7月27日、ぼくは目黒の大橋から世田谷の野沢に引っ越しをした。

新たな部屋はルームシェアをするということで、それぞれが独立したプライバシーを確保することが条件だったので、六畳の部屋が二つと十五畳ぐらいのリビングダイニングが付いた2LDKのマンションに決めた。
13階建てのマンションの10階の角部屋が新しい住まいとなった。
最寄り駅は新玉川線の駒沢大学駅から徒歩10分程のところだった。

環七沿いに建っていたこのマンションは素晴らしく眺めが良くて、ぼくの部屋の窓からは東京が一望出来て、夜になると新宿の高層ビル群や渋谷の街の夜景がとても綺麗で、東京タワーや天気の良い日には遠くに筑波山も見えた。
リビングからは新宿から渋谷〜霞ヶ関の景色に加えて、羽田空港に離着陸する飛行機や、晴れた日には房総半島まで一望出来るという、素晴らしいパノラマビューを楽しむことが出来た。
ぼくは夜の東京の街を眺めながら、部屋に置いてあるフェンダーローズピアノをよく弾いていた。

このマンションの一階にはホンダのディーラーが入っていて、ぼくはそのディーラーで新しい車を買った。買った車はホンダから出たばかりの「シティ」というコンパクトカー。
1981年から浜田さんのバンドに加入したベースの江澤くんとは特に気が合って、関東近郊のコンサートにはよく二人でぼくのシティや江澤くんの車に乗って出かけた。

この頃になると、浜田さんのコンサートの動員数も次第に増え出して来て、有り難いことにぼく達バンドのメンバーにも、ぽつぽつとファンが付いてくれるようになった。
悩みの種と言えば、どこでどう調べたのか、ファンの方にぼくの住んでいるところを特定されて、部屋の前や表で待ち伏せされたりすることが頻繁に起きるようになったことだった。
アイドルでもないのにと、何ともぼくは複雑な気持ちだった。

部屋をシェアしたと言っても、ルームメイトのMくんもPAオペレーターとして、いろんなコンサートツアーに帯同して一年中全国を飛び回っていたので、ほとんど彼と一緒に部屋にいることはなかった。
旅にばかり出ていて殆ど家にいなかったこともあって、自炊をすることは滅多に無かった。
近くに「まつおか」というすごく美味しい定食屋があり、ぼくは殆どここで食事を済ませていた。

83年冬の郡山でのコンサートの時、ぼくは酷い風邪をひいて高熱にうなされながら演奏をしたことがあった。
その日はコンサート後に帰京するスケジュールになっていて、ぼくの体調を心配した浜田さんが「今日は家に帰らないでオレの家に来い」と言ってくれて、ぼくは朦朧としながらその晩は浜田さんの家に泊めてもらった。
少し体調が戻った次の日、家に帰ってからぼくは一人寂しくまつおかでサンマの開き定食を食べたことを昨日のようによく覚えている(笑)

野沢のマンションでの最大の思い出は、この部屋で浜田さんのアルバム「Down by the Mainstreet」のプリプロダクションを行ったことだった。
(プリプロの詳しいことは「浜田省吾 #21 プリプロ顛末記」を参照していただければ)

他にもこの部屋に住んでいた頃に、浜田さん初の武道館公演があったり、渋谷公会堂での3Days公演や、福岡海の中道海浜公園での第一回目の「A Placa in the Sun」や、The Fuse解散のほろ苦い思い出、横浜スタジアムでの第二回目の「A Placa in the Sun」等々、本当にたくさんのことがあった。

1984年からルームメイトのMくんが、なんと浜田さんのコンサートのPAを担当することになって、ツアーに帯同することになった。
思わずぼくは西本くんとの甲斐バンドのツアーのことを思い出した。
西本くんの時と同様に、また旅先でも家でも一緒の生活になるのは絶対に避けたかったので、Mくんが浜田さんのツアーに帯同することが決まったと聞いて、ぼくは引っ越すことを決意した。

次の引っ越し先が決まったのは浜田さんのアルバム「Down by the Mainstreet」の合宿レコーディングのため、河口湖のスタジオに行く直前のことだった。

続く。

リビングからの眺め。遠くに房総半島が見える。

2020/05/15

引っ越しの変遷 Part.1

長い間放置してしまったけど,久しぶりの更新です。
今回は「引っ越しの変遷」について。

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ぼくはこれまでに何回か引っ越しを経験した。
その多くは音楽活動と密接に関係していたので、覚えている範囲で引っ越しと音楽について記そうと思う。

最初に引っ越しをしたのは、1975年(昭和50年)の終わり頃だったと思う。
高校を卒業して約一年間、ぼくはヤマハが運営していた「ネム音楽院付属教室」という専門学校に通った。ネム音楽院付属教室は山の手線恵比寿駅の真ん前にあって、当時住んでいた千葉県市川市の僕の家からは約一時間半ぐらいかかった。
授業はたしか週に2回ぐらいで、授業は音楽の基礎知識に関することが殆どだった。
授業内容はぼくが小学生の頃にピアノ教室に通っていた時に、教わった内容とあまり変わらない講義ばかりだったので、ぼくは学校に通い出してすぐに飽きてしまっていた。

そんな時、幼馴染みのオカムラから「今度家を出てアパート借りようと思うんだけど、家賃折半で一緒に住まないか?」と言う話を持ちかけられた。
ネム音楽院での授業に飽き飽きしていたぼくは、なんだか面白そうな話だと思い、深く考えることも無くすぐにオカムラの提案に乗った。

ぼく達が初めて親元を離れて借りたアパートは、国電(当時はJRではなく国電だった)市川駅北口から徒歩10分ぐらいのところにある六畳一間、風呂無しの部屋だった。台所は猫の額程しかなく、トイレは和式で家賃は一万七千円。国鉄初乗り60円、ラーメン一杯約250円の時代だった。

オカムラと暮らし始めた頃に、ぼくはプロのミュージシャンの真似事のようなことを始めた。
初めての仕事は、千葉の音楽サークル仲間でシンガーソングライターのひるたたつろうさんが「ミルキーウェイ」というフォークデュオでデビューすることになって、ぼくはそのバックバンドでピアノを弾くというものだった。

バックバンドと言っても、メンバーはぼくの通っていた高校の同級生が中心となったバンドで、殆どアマチュアバンドに毛が生えたようなバンドだった。
ひるたたつろうさんと相方の坂元昭二さんのミルキーウェイは、1974年10月にコロムビアレコードからデビューして翌年にはファーストアルバムも発表していた。

ミルキーウェイのバックを何回かやっているうちに、今度は熱海の旅館で演奏する話が舞い込んで来た。
この時に出会ったドラムの泉水くんとの出会いが、その後のぼくの運命を大きく左右していくこととなる。
ぼくは人生の中で何度か自分の運命を左右する大きな出会いに遭遇したことがある。
その最初の出会いが泉水くん、そして後述するが伊藤薫さんとの出会いも、後の自分の音楽人生にとても重要な意味を持つこととなるのであった。

熱海の旅館で二ヶ月ほどのハコバン(旅館に住み込みの専属バンド)の活動を終えて市川に戻ると、熱海バンドのバンマスの紹介で、ぼくはCoastというプロを目指すバンドに加入することになった。
いよいよこれで本格的に、プロのミュージシャンとして活動を開始することになるのかと思いきや、ぼくの期待とは裏腹に今度は銀座のビアガーデンで演奏をするという、ある意味過酷な仕事が待っていた。

鬱屈した気分になりながら、ビアガーデンでの演奏をしていた時に、Coastが所属していた事務所がデビューしたばかりの女性シンガーである、庄野真代さんのバックバンドの仕事を取って来た。
いよいよ今度こそ本当にぼくのプロのミュージシャンとしての活動がスタートすることになった。

その後、Coastは自分達のライブ活動と併行して、いろんな人のバックを担当した。
そして翌年の1977年にぼくはCoastを脱退した。

全然肝心の引っ越しの話になって行かない(笑)

ちょうどその頃ドラムの泉水くんの紹介で、千葉で凄腕と評判の二人のアマチュアミュージシャンと知り合った。
彼等の名前はピアノの西本明とベースの江澤宏明。二人は高校の同級生で千葉県出身の20歳とのことだった。

同居人でコック修行中のオカムラが、働いている東京のレストランの寮に入ることになり、アパートの住人は僕一人になった。するとそこに西本くんが頻繁に泊まりにくるようになった。
やがて彼はぼくの住むアパートに入り浸るになったので、それならいっそのこと引っ越してくればいいんじゃない?ということで、ぼくは西本くんと共同生活を送ることになった。

1977年9月26日、果たして西本くんはぼくの住むアパートに引っ越して来た。
それから彼とは約二年半の間、共同生活を送ることとなる。

西本くんと六畳一間のアパートで暮らし始めてから暫くして、ぼく達はベースの江澤くんと、あと高円寺のリハーサルスタジオでバイトをしていた、ドラムの田桑一朗くんの四人でバンドを組んだ。
高円寺の南口から青梅街道のほうに向かって数分歩いた場所に、田桑くんがバイトをしていた「Sit in」というスタジオがあった。ぼく達はよくそのSit inで練習をした。ぼく達のバンドの名前は「So Fine」と言った。

そんな頃、ぼくはひょんなことから福岡出身のリンドンという三人組のバンドで、ドラムを叩いている伊藤薫さんと知り合った。
薫さんとはその後「Hot Menu」というバンドを結成してデビューを目指すのだが、いろんな事情が重なって残念ながらデビューを果たすことは出来なかった。
でもその後、伊藤薫さんの紹介で、ぼくは幸運にも甲斐バンドのサポートメンバーに抜擢された。

ぼくが甲斐バンドに加入した最初のツアーはキーボードはぼく一人だったのだが、二人キーボードがいると良いねということになり、ぼくは同居していた西本くんを推薦した。
そんなわけでぼくと西本くんはツインキーボード体制で、甲斐バンドのレコーディングや全国ツアーに帯同することになった。

甲斐バンドのツアーに帯同することになって少し金銭的にも余裕が出来たのと、どうにも部屋が狭いので、もう少し広い所に引っ越そうという話になった。
次に引っ越した先は、市川駅南口から歩いて徒歩5分程のところにある2Kの、三階建てのコーポだった。

間取りは六畳と四畳半の和室二間に、三畳程度の簡単なキッチンが付いた2K。前のアパートとの最大の違いは風呂付きということだった。これで遅く帰って来てもお風呂に入ることが出来るようになった。
家賃は四万五千円。かなりのグレードアップであった。と言っても折半だけど(笑)

この頃、ぼくは初めての車を買った。ホンダのライフステップバンという可愛い軽自動車だった。
360ccの非力な車だったが、荷物がたくさん乗るのでとても重宝した。
この車に楽器を積んでいろんなところに行ったり、千葉や湘南の海にもよく行ったりした。

1980年4月20日、ぼくは西本くんとの共同生活に終止符を打って、東京に引っ越した。

1979年の秋からぼくは浜田省吾さんのバンドに加入して、ツアーで頻繁に家を空けることが多くなっていたのと、帰宅が深夜になることが多くなって、しばしば終電に乗れずに市川まで帰ることが出来ないことが増えて不便を感じ始めていた。
明くんに引っ越すことを告げたのは引っ越しをする直前だったので、彼にはちょっと申し訳ない気持ちもあったのだが、すでに決めてしまった後だったのでどうしようもなかった。

新たな引っ越し先は目黒区の大橋というところで、渋谷から東急新玉川線(後の田園都市線)で一駅目の、池尻大橋駅から徒歩3分程の国道246号線沿いに建つマンションだった。
たしか10階建てぐらいの古いマンションで、間取りは六畳一間と四畳半ぐらいのダイニングキッチンが付いた1DK。ぼくが借りた部屋は7階だった。風呂トイレは別ではなく一緒だったが、古い作りのためか結構広かった。家賃は五万七千円。一階には24時間営業のラーメン屋が入っていて本当によくお世話になった。

部屋の窓からはすぐ横を流れる目黒川がよく見えて、桜の時期になると川沿いにたくさんの桜が咲き乱れてそれはそれはとても綺麗だった。
ぼくはお風呂とトイレが一緒になった部屋の壁を(コンリート打ちっぱなしの壁)東急ハンズでペンキを買って来て黄色く塗ってしまった。何故黄色く塗ろうと思ったのかは、今となっては謎である(笑)

偶然にも浜田さんのバンドのもう一人のキーボードプレイヤーである一戸清くんが、歩いて数分程のすぐ近くに住んでいて、当時独身だったぼくはすでに既婚者であった一戸くんの家で、何度もご飯をごちそうになった。
一戸くんとはツアーで羽田空港や東京駅に行く時も一緒のタクシーで行ったり、時には彼の車に乗せて貰って行ったりと、公私にわたってとても仲良くさせてもらった。

そしてぼくの記憶ではこの1980年の春のツアーから、浜田省吾のバックバンドの名前が正式にThe Fuseとなったのであった。

あるツアーの移動の新幹線の食堂車内での会話。
浜田「今度バンドに名前を付けたいんだけど、プリテンダーって言う名前はどうかな?」
バンドメンバー「イギリスにプリテンダーズってバンドがあるから、ちょっと紛らわしくない?」
浜田「じゃあ、アウトサイダーズっていうのはどう?」メンバー「う〜ん、悪くないけどどうなんだろ?」

バンドメンバーからも様々なバンド名の候補が上がったが、なかなかこれといったバンド名が出て来なくて、ちょっと煮詰まって来たところに、ぼくが「The Fuseってどうかな?」と提案した。
The Fuseとは言うまでもなく、ジャクソン・ブラウンが1976年に発表した名アルバム「The Pretender」のオープニングナンバーの曲名である。
浜田さんもぼくも、バンドのメンバーもみんなジャクソン・ブラウンのファンだったので「The Fuse!いいねぇ!」ということでバンド名はThe Fuseとなった。
ちなみに浜田さんが推していた「アウトサイダーズ」後に浜田さんの草野球チームの名称として採用された。

まだまだ長くなりそうなので続きはまた(笑)


市川駅南口の2Kのコーポにて。

2018/12/13

約束のバラッド

今回は1996年に行われた大友康平さんのソロツアー「約束のバラッド」のことを。

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1996年5月17日の大阪を皮切りに約1カ月半で全国19ケ所を廻る大友康平のソロツアーが始まった。
ツアータイトルは「大友康平Live Ballad Series“約束のバラッド"」
ハウンドドッグから離れて、ソロシンガー大友康平としての初のソロツアーだった。

ぼくはマネージャーからの電話でこの話を聞いた。
「板さん、今度ハウンドドッグの大友康平さんがソロでツアーをやることになって、そのバンドのバンマス(バンドマスター=リーダーのこと)を板さんにやって欲しいとのことですがどうします?」
ぼくは少し考えてから答えた。
「それは大変光栄なことなので、喜んでやらせて貰います。」

ツアーの内容はバラード中心の選曲で、ハウンドドッグの曲もあればカバー曲や新曲もあるという、バラエティに富んだものになるとのことだった。

バンドメンバーの人選は任せてくれるとのことだったので、ぼくは信頼しているミュージシャン達に声をかけた。
結果、集まったメンバーは、
ドラムス:高橋伸之
ベース:池間史規
ギター:高村周作
キーボード:友成好弘、板倉雅一
サックス:古村敏比古
の計6人。

ドラムの高橋くんとサックスの古村くんは、浜田省吾さんのバンドメンバー、ベースの池間くんとは、以前浜田さんのバンドのベーシストだった岡島くんのトラ(代役)を彼が務めてからの間柄、キーボードの友成くんも、浜田さんの横浜スタジアムでのコンサートの時に一緒にプレイした間柄、ギターの高村くんとは、松山千春さんや久宝留理子さんのツアーで一緒だった。
そんな気心の知れたバンドメンバーが集結した。

後日ぼくはマネージャーと大友さんのオフィスを訪れた。
初めてお会いする大友さんはとても気さくな方で、ぼくに対して気を遣ってくれているのがよく分かった。

大友さんからの希望は、今回はほぼ全曲バラードナンバーばかりのツアーなので、バラード中心のコンサートでも、起伏のある内容のサウンドと編曲にして欲しいとのことだった。

後日大友さんのオフィスから、コンサートでやる候補曲のリストと音源が届いた。
その数約40数曲、実際にコンサートで演奏する曲は20曲程度だが、幅を持たせて多めに選曲したとのことだった。

リハーサル初日までの時間はあと二週間ほど。ぼくは二週間で40数曲の編曲と譜面を書かなければならない事態に陥った。
二週間で40数曲の編曲を完成させるには、単純に計算しても一日3曲ペースで作業していかなければ間に合わない。しかし、そんな簡単に計算通りに出来るとも思えない。ぼくはもの凄いプレッシャーを感じていた。

それから二週間の間、他の仕事はひとまず保留にして、大友さんのコンサート用の編曲と譜面書きに没頭した。ほとんど外出することもなく、アイデアを練ってはそれこそ寝る間も惜しんで、五線紙に音符を書き込んで行った。
指にペンだこを作りながら死にものぐるいで集中した結果、何とか二週間で40数曲すべての譜面を書き終えることが出来た。編曲と譜面を書き終えた時点で、ぼくはもうすっかりすべての曲を演奏することが出来たような気分になっていた。

いよいよ大友康平さん初のソロツアー「約束のバラッド」のリハーサルが始まった。
場所は都心から少し離れた都内某所の大きなリハーサルスタジオ。

リハーサル初日、ぼくは少し早めにスタジオに行った。ほどなく続々とバンドメンバー達もスタジオ入りして来た。
久しぶりにメンバー達と会えてぼくも嬉しかったし、みんなもとても嬉しそうだった。

スタジオに入って楽器のチューニングをしたり、チェックの音出しをしたりしていると大友さんが現れた。ぼくはバンドのメンバーを一人ずつ大友さんに紹介した。

簡単なサウンドチェックを済ますとリハーサルが始まった。最初はハウンドドッグのバラードナンバーから合わせることにした。ぼく達は初めての大友さんとの音合わせだったので、少し緊張しながら最初の数曲を演奏した。
すると次第に大友さんは何か納得の行かないような表情を見せた。

何かと思って、ぼくは演奏しながら大友さんのほうを見た。
どうやらぼく達があまり喋らずに黙々と演奏していることが、大友さんは気になっているようだった。

バンドのメンバーが真剣な表情をして演奏していると、大友さんはスタジオ内の雰囲気がピリピリしていることを敏感に感じ取って、しきりに冗談を言ってはぼく達を和ませようとした。
それでもぼく達は譜面と演奏に集中していたため、大友さんのジョークに対してあまり反応する余裕が無かった。

大友さんはそんなバンドのリアクションの無さを見て、本来は「大友康平&The Big Friends(大友さんの名字「大きい友達」をもじったバンド名)」という立派なバンドの名前が付いていたのだが、ぼく達のバンド名を「ノー・リアクションズ」とからかっては笑いを振りまいていた。

約三週間のリハーサルが終了し、埼玉の東松山でのゲネプロ(コンサート本番と同じ構成進行で行う最終リハのこと)を終えると、ぼく達は全国19ケ所を廻るツアーに出た。

コンサートは「約束のバラッド」というタイトル通り、全曲バラードナンバーで構成されていた。バラードナンバーだけのコンサートなので、いつものハウンドドッグのコンサートのようにお客さんも総立ちになるようなことは無かった。

セットリストの中にはカバー曲も結構あった。
中でもKISSの「ハードラック・ウーマン」とロッド・スチュワートの「もう話したくない」は、ぼくもとても好きなナンバーだった。
他にもハウンド・ドッグのバラードナンバーや、ダウンタウン・ブギウギ・バンドやアリスの曲のカバーもあった。
とにかく大友さんのボーカルもバンドの演奏も素晴らしかった。そして回を重ねる毎に更にどんどん良くなっていった。

それと曲と曲の合間に入る大友さんのMCが抜群に面白くて、ぼく達はいつも後ろで大友さんのMCを聞きながら爆笑していた。
全曲バラードナンバーだけのコンサートだったが、お客さんも演っている側も退屈するようなことは一切無かった(と思う。)

このバンド”Big Friends"(別名ノー・リアクションズ)はとにかく仲が良くて、行く先々の町でみんなで美味しいものを食べに行ったり、お酒を飲んで羽目をはずこともあった。
とにかくツアー中は時間が過ぎて行くのがとても早く感じられた。

そんな楽しい旅も7月のNHKホールと、中野サンプラザでの東京公演で幕を閉じた。
千秋楽の公演を終えた夜、大友さんやバンドメンバー、スタッフも交えてのささやかな宴が催された。みんなとても名残惜しそうだった。

二次会が終わりすっかり夜も更けた頃、ぼく達はまた再会を約束して握手して別れた。


大友康平&Big Friendsの面々。

2018/01/04

浜田省吾 #36 イメージの詩

今回は1997年にリリースされた浜田省吾さんのCDシングル「イメージの詩」のことを。

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浜田省吾「イメージの詩」1996年10月30日(水)Recorded at Sony Shinanomachi Studio。

浜田さんが吉田拓郎さんの50歳の誕生日を祝して、拓郎さんのデビュー曲である「イメージの詩」をカバーして、ロサンゼルスのトップミュージシャン達を起用してレコーディングするという企画が密かに進行していた。ぼくはもうすぐ40歳になろうかという頃だった。

吉田拓郎さんが1996年に行なった“Tour'96感度良好ナイト”というコンサートツアーのバックアップバンドにLAの凄腕ミュージシャン達が招集された。
メンバーは、ドラムス:ラス・カンケル、ベース:リー・スクラー、ギター:ワディ・ワクテル、キーボード:クレイグ・ダーギー。

この四人は拓郎さんが95年にバハマでレコーディングした「ロングタイム・ノー・シー」というアルバムに参加したことがきっかけで、拓郎さんの96年の全国ツアーにも参加することになった。
そして拓郎さんのツアーのためLAからのミュージシャンが来日しているタイミングで、浜田さんサイドからLA組に「イメージの詩」へのレコーディング参加のオファーを打診したところOKの返事が貰えたため、浜田省吾さんがカバーする吉田拓郎さんの「イメージの詩」のレコーディングが実現することとなった。

そんなある日、ぼくのところへ一本の電話がかかって来た。浜田省吾さんからだった。
「やぁ、板さん元気?浜田です。今日は板さんがすごく喜んでくれる話があって電話したんだ。」「お久しぶりです。突然の電話でびっくりしました。ぼくが喜ぶ話って一体何ですか?」ちょっとドキドキしながらぼくは答えた。
「今度、吉田拓郎さんの50歳のバースデーを祝って、拓郎さんの「イメージの詩」をレコーディングしようと思ってるんだ。バンドはザ・セクションのメンバー達とやりたいと思って、オファーをしたらOKの返事が来たんで一緒にやれることになったんだ。ザ・セクションのメンバーはみんな板さんの憧れのミュージシャン達だよね?そんな訳で板さんを誘ったら喜ぶと思って連絡したんだ。どう?一緒にやってくれる?」

ぼくは一瞬浜田さんが何を言っているのかよく分からなくなっていた。ぼくの大好きなザ・セクションを中心としたLAのミュージシャン達と、これまた大好きな拓郎さんの曲を、しかも当の拓郎さんまでもが参加してのレコーディングが実現するなんて、俄には信じられない話だった。

それから何日かして正式に浜田さんのマネジメントオフィスから、ぼくの所属するオフィスにオファーが届いた。
日程は1996年の10月30日、場所は信濃町のソニースタジオ。レコーディングする曲は吉田拓郎さんのデビュー曲にして名曲の「イメージの詩」。
ぼくは最初に浜田さんから「板さん、アコースティックピアノを弾く?」と聞かれたのだが、ぼくが一番尊敬しているキーボーディストであるクレイグ・ダーギーの前で、ピアノを弾く度胸はとてもじゃないが無かったので「ハモンド・オルガンを弾かせて貰います」と答えた。

レコーディングが決まってからというもの、ぼくは何日も落ち着かない日々を過ごした。
ぼくにとって憧れのメンバーとのレコーディングの話は、いつかそんな機会があったら素晴らしいとは思っていたが、まさか本当に実現することになるとは夢にも思っていなかった。

そしていよいよレコーディングの日がやってきた。
ぼくは緊張しつつも平静を装い、少し早めにスタジオ入りした。まだメンバーは誰も来ていなかった。
少しして浜田さんがスタジオに現れた。ぼくは浜田さんとの久しぶりの再会を喜んだ。
スタジオのロビーで浜田さんと談笑していると、続々とLA組のメンバー達がスタジオ入りして来た。
ぼくがあんなにも憧れたLAのミュージシャン達が確かにそこにいた。間近で見るとみんな凄く大きい。ぼくは夢を見ているのではないかと思い、ほっぺたをつねってみた(本当)。当然ながら夢ではなかった。

全員がスタジオ入りしたところで、コーディネーターの方がメンバーを紹介してくれた。
ぼくは一人一人と握手を交わしながら、拙い英語で挨拶をした。ドラムのラス・カンケルが「は〜い、イタサン!」と日本語でウインクを返してくれた。LA組の連中はみんなフレンドリーだったが、一人だけ違う雰囲気の方がいた。吉田拓郎さんだった。

中学生の頃、初めて拓郎さんの曲に魅せられて、それから高校を卒業するぐらいまでの間、それこそ熱に浮かされたように拓郎さんの曲を聴きまくっていた時期があった。
ぼくはそんな雲の上の人を目の前にして緊張しないわけが無かった。

拓郎さんのマネージャーの方が拓郎さんにぼくを紹介してくれた。ぼくは失礼の無いように丁寧に挨拶をした。しかし具合でも悪いのか、拓郎さんはあまり喋らなかった。
後から聞いたところによると、元々拓郎さんは人見知りの上にこの日は体調が今ひとつだったとのことであった。

レコーディングが始まる前まで、各々が自分の楽器の音をチェックしながら適当な音を出していた。
ぼくはみんなの使っている楽器やアンプが気になって、それとなく見て回った。

ラス・カンケルはヤマハのドラムセットを使っていた。ジャクソン・ブラウンのツアーの際はSonor製のドラムだったと思ったが、今回はヤマハ製のドラムだった。

リー・スクラーのベースはカスタムメイドのもので、ネックのヘッドの部分にはフェンダーやギブソンのブランドロゴではなく、「Leland Sklar」と刻印されていた。

ワディ・ワクテルのギターはギブソンのレスポールモデルだった。
アンプはフェンダーのデラックス・リバーブを使用していた。そしてアンプの裏には「レオ・ミュージック」の刻印が。レオ・ミュージックとは東京の楽器レンタルの会社で、今回のレコーディングの楽器関連はレオ・ミュージックからレンタルしたものと思われた。

クレイグ・ダーギーの弾くグランドピアノはスタジオに常設のもの、ぼくの弾くハモンドB3オルガンとオルガンを鳴らすためのレスリー・スピーカーもレオ・ミュージックのものだった。

ぼくと浜田さんはピアノのクレイグ・ダーギーのところに行って、ぼくがどれだけクレイグ・ダーギーに憧れていたかということを、浜田さんが流暢な英語でクレイグに説明してくれた。
クレイグは謙遜しながら「これからはぼくのような年取ったものの時代じゃなくて、君のような若者の時代だよ。」と言った。ぼくも決して若くは無かったのだが、クレイグにはぼくがよっぽど若く見えたらしい(笑)。

ぼくは思い切ってクレイグにリクエストをしてみた。「あの良かったら何かジャクソン・ブラウンの曲を弾いてもらえませんか?」するとクレイグはすぐに次々と自分がレコーディングに参加したジャクソンの曲を弾いてくれた。「プリテンダー」「ホールド・オン・ホールドアウト」「孤独なランナー」等々。
ぼくは「ホールド・オン・ホールドアウト」でのクレイグのピアノがとても好きだったので、目の前で繰り広げられるクレイグのピアノ演奏を目をこらして見ていた。
それにしても身体もでかいが手もでかい。ぼくがやっとのことで押さえるピアノのオクターブ間の鍵盤を、クレイグはいとも簡単に押さえていた。

やがてクレイグがジャクソン・ブラウンの「「孤独なランナー」を弾き始めると、すぐに他のメンバーも反応した。クレイグのピアノに合わせてドラムのラス・カンケルとベースのリー・スクラーも「孤独なランナー」を演奏しだした。

ジャクソン・ブラウンが1977年に発表したライブアルバム「孤独なランナー」は、ピアノがクレイグ・ダーギー、ドラムがラス・カンケル、ベースがリー・スクラーで、ギターはダニー・クーチとデビッド・リンドレーだった。
今、スタジオで演奏されている音は正にその当の本人達による演奏だった。
ぼくもハモンド・オルガンのところに行ってその演奏に参加した。みんな軽いタッチで演奏しているのだが、レコードが擦り切れるぐらい聴いた「あの音」が目の前で、そして装着しているヘッドホンから聴こえて来ている。ぼくは感動で鳥肌が立った。
短い間ではあったが、そんな本物達と「孤独なランナー」を一緒に演奏出来たことは、ぼくにとって至上の喜びだった。

クレイグ・ダーギー以外のメンバーの印象は、ドラムのラス・カンケルは陽気なアメリカン、ギターのワディ・ワクテルはその風貌に似つかわしくない物静かな紳士、ベースのリーランド・スクラーはちょっと神経質そうな感じではあるが、大学の教授のような雰囲気で、LA組の音楽的なリーダーシップをとっていたのはリー・スクラーだった。

各楽器のサウンドチェンクが終わると、アレンジャーの星勝さんの号令でいよいよリズム録りが始まった。今回のアレンジは星勝さんだった。
ぼくも星さんの書いた譜面をハモンドオルガンの前の譜面台に置いた。しかし譜面が長すぎて一台の譜面台では置ききれないため、もう一台譜面台を用意してもらった。

改めて今回のレコーディングメンバーを。
ボーカル&ハーモニカ:浜田省吾
ドラムス:ラス・カンケル
ベース:リー・スクラー
ギター:ワディ・ワクテル
ピアノ:クレイグ・ダーギー
ハモンド・オルガン:板倉雅一
アコースティック・ギター:吉田拓郎

ラス・カンケルがレコーディングに参加したアーティストは、ジェイムス・テイラー、ジャクソン・ブラウン、キャロル・キング、ジョニ・ミッチェル、ボブ・ディラン、カーリー・サイモン、、リンダ・ロンシュタット等々。

リー・スクラーがレコーディングに参加したアーティストは、ジェイムス・テイラー、ジャクソン・ブラウン、キャロル・キング、デヴィッド・フォスター、クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング、ドン・ヘンリー 等々。

ワディ・ワクテルがレコーディングに参加したアーティストは、ウォーレン・ジヴォン、リンダ・ロンシュタット、スティーヴィー・ニックス、ロッド・スチュワート、ローリング・ストーンズ、リンゴ・スター等々。

クレイグ・ダーギーがレコーディングに参加したアーティストは、ジェイムス・テイラー、ジャクソン・ブラウン、CS&N、、リンダ・ロンシュタット、ネッド・ドヒニー、ドノバン、ベット・ミドラー等々。
それぞれがそれこそ星の数程のレコーディングやライブを経験している、正にアメリカを代表するトップミュージシャン達だった。

とりあえず一回演奏してみようということで、1テイク目の録音が始まった。
ラス・カンケルのカウントでワディ・ワクテルのギターから始まるイントロ部分が演奏されると、ぼくはそのサウンドの迫力に度肝を抜かれた。ヘッドホンを通して聴こえてくる演奏の音圧感が凄いのだ。特にラス・カンケルのドラムはヘッドホンを装着していても生音が聴こえてくるほど音が大きかった。そしてラス・カンケルの叩くスネアのタイミングとクリック音(レコーディングの時にヘッドホンから聴こえてくるガイド音。曲のテンポが一定になるようにミュージシャンはクリックに合わせて演奏する)のタイミングが合いすぎていて、全くクリック音が聴こえないのには驚いた。

「イメージの詩」は同じヴァースが延々と続く長い曲で、譜面には繰り返し記号がたくさん書かれていた。なので集中して譜面を見ていないと、すぐにどこを演奏しているのか分からなくなってしまう。ぼくは神経を尖らせて演奏に集中した。

試しに最初に演奏したテイクを、コントロールルームでみんなで聴いてみた。
1テイク目の演奏なのに驚いたことにもの凄く良い。
浜田さんはもうこのテイクでバッチリだと言っている。もしや1テイクでレコーディング終了?
するとラス・カンケルがもう一回だけ演奏させて欲しいと言って来た。勿論誰も異論を挟むものはいなかった。

2テイク目の演奏も素晴らしかった。ぼくも何とかみんなについて行くことが出来た。
結局2テイク目の演奏が採用されることになり、レコーディングはすぐに終了してしまった。
その後、プロモーションヴィデオ用に何回か当て振りのシーンを撮影して「イメージの詩」のレコーディングは終了した。

この後、みんなでの食事会が予定されていたのだが、残念ながらぼくは後があって参加することが出来なかった。

ぼくにとって本当に夢のような一日が終わった。長年焦れていた夢が叶った瞬間だった。
そしてこのレコーディングにぼくを誘ってくれた浜田さんには、いくら感謝してもしきれない気持ちでいっぱいだった。

余談:ぼくは密かにレコーディングスタジオに、ジャクソン・ブラウンやクレイグ・ダーギー、ザ・セクションのCD&アルバムを持参していった。
あわよくばメンバーのサインを貰おうという魂胆だった。しかし実際スタジオに入ると、レコーディングスタッフ、ビデオの撮影クルー、スチールカメラマン、コーディネーター、マネージャー等、たくさんの人がスタジオの中にいて、とてもピリピリと張りつめた空気が漂っていた。とてもじゃないがその場でサインを貰えるような雰囲気ではなかった。そんな訳でぼくのサイン頂戴作戦は見事に玉砕した(笑)。
スタジオで談笑するピアノのクレイグ・ダーギーとぼく。

2017/12/07

1994&95年の出来事

今回は1994年と95年のことを。

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1994年と95年の二年間、ぼくはほとんどツアーには出ずに、スタジオでのレコーディングワークに精を出した。そして93年の後半からすでに実務は開始していたが、94年から正式にマネージメントオフィスに所属することになった。
ぼくにマネージャーと楽器関係のスタッフが帯同してくれることになって、スケジュールのブッキングや調整、楽器の運搬等から解放されて、ぼくは音楽だけに専念することが出来るようになった。

94年の前半はロックバンドinfixの、4枚目のアルバムのプロデュースとレコーディングに明け暮れた。
ぼくはinfixの2枚目のアルバムからプロデュースを担当するようになって、今回で3作目となるアルバムは、彼等にとっても勝負の作品になるアルバムだった。
この頃のinfixはアメリカンロック的なサウンドを指向していて、ぼくも彼等の持ち味を充分に発揮出来るよう、レコーディング前から綿密なコンセプトを練った。
結果、なるべく余計な音は省いて、シンプルでタイトでギターを全面に出した音作りを目指した。

アルバムには初めてギターの佐藤晃くんと、ベースの野間口くんがリードボーカルをとる曲や、6管編成のホーンセクションが入る曲もあったりと、更に音楽の幅が広がったアルバムになった。
また、久しぶりにサックスの古村敏比古くんにも参加してもらった。

infixとのアルバムのレコーディングは3枚目ともなると、ぼくとメンバーとのコミニュケーションもよりスムーズになり、過去のアルバムの時よりもレコーディングは順調に進んだ。
ボーカルの長友くんの歌入れには少しナーバスになったりしたが、約半年近くに及ぶレコーディングの末、infix4枚目のアルバム「MOTHERLAND」は完成した。3部作の集大成とも言うべき堂々たる作品に仕上がった。
アルバムがリリースされると、チャートアクションも売り上げも過去最高を記録するスマッシュヒット作となった。

inifixのレコーディングが終わるとすぐに、今度は俳優で歌手でもある原田龍二さんのレコーディングが始まった。
ぼくはアレンジとキーボード、コーラスを担当した。レコーディングメンバーの人選も任されていたので、信頼しているメンバー達にお願いした。
原田龍二さんのレコーディングに集まってくれたメンバー達は以下の通り。

ドラムス:高橋伸之
ベース:美久月千晴、江澤宏明
ギター:鎌田ジョージ、増崎孝司
キーボード:板倉雅一、友成好宏
サックス:阿部剛
コーラス:町支寛二, 江澤宏明, 板倉雅一

レコーディングは世田谷のスタジオ・サウンドダリとクレッセント・スタジオ、東京ベイエリアの東雲にあった、布袋寅泰さんのスタジオでもあるIRC2 STUDIOで行われた。
主たるレコーディングエンジニアは、infixの3枚のアルバムでも一緒だった森元浩二くん。

ドラムスは高橋くん、ベースは江澤くんと美久月くんの浜田省吾チーム、ギターの鎌田くんは中村あゆみのバンドメンバー、サックスの阿部さんは尾崎豊のバンドメンバー、キーボードの友成くんは角松敏生のバンドメンバーという、凄腕のミュージシャン達でレコーディングを行った。
コーラスには元The Fuseの町支さん、江澤くんに参加してもらい、ぼくを含めた3人で担当した。久しぶりに浜田省吾さんのコンサートの時のコーラスを思い出したりもして、とても楽しいレコーディングだった。

他にも貞富英樹くんというシンガーソングライターのプロデュースも担当した。
こちらのレコーディングには高橋、江澤、板倉のFuseのメンバー+松山千春さんのツアーで一緒だったギターの高村周作くんに参加してもらった。

94年は他にinfixのライブサポートも担当した。

95年に入ると更にレコーディングのスタジオワークがメインとなった。
この年にぼくがレコーディングに参加したアーティスト達は、元The東西南北の久保田洋司、2人組のユニットThe Kids、声優の日高のり子、シンガーソングライターの青西高嗣、中国出身の三人組ダイヤオ、チャンチェン、リウジエ、元レベッカの古賀森男等、多岐にわたった。

久保田洋司くんとはアルバム「ピエロ」の制作で、共同プロデュースという形でレコーディングをした。ドラムの高橋くん、ベースの江澤くんにも参加してもらった。
町支さんには一人多重コーラスを入れてもらったりと、元The Fuseのメンバーとの交流は変わらずにずっと続いていた。

日高のり子さんのレコーディングはTBS系で放映されたテレビアニメ「OZキッズ」のテーマソングだった。
ぼくはアレンジとキーボードで参加した。
コーラスにシンガーソングライターの山本英美くんと、須藤薫さんに参加してもらった。須藤薫さんは80年代にCBSソニーから何枚ものアルバムをリリースしていた女性シンガーで、松任谷由実さんの「Surf&Snow」というアルバムでのコーラスワークが高く評価され、その後大活躍をされた方。
ぼくは薫さんの大ファンだったので、自分がアレンジしたコーラスパートを、薫さんに一人多重コーラスで歌ってもらって完成した時はとても感激した。まさにレコードで聴いていたあの声と素晴らしいコーラスワークだった。

青西高嗣くんのレコーディングは、アルバムのほぼ全曲をアレンジ&演奏することになり、アレンジをしている日にちがあまり無かったこともあってとても大変だった。
しかもリズム録りを一日か二日で全曲終えなければならず、レコーディングではとても集中して演奏した。おかげで緊張感のある良いパフォーマンスを記録する事が出来た。

このころぼくはスタジオ・サウンドダリのエンジニアである森元浩二くんと頻繁に一緒に仕事をしていた。久保田洋司くんのアルバムも森元くんのミックスだった。
ぼくは彼の作る音がとても好きだった。
青西高嗣くんのレコーディングも勿論森元くんにお願いした。森元くんらしい張りのある素晴らしいサウンドになった。

元レベッカの古賀森男くんとは同じ事務所だったこともあって、ぼくはレコーディングのみならず古賀くんのライブサポートにも参加するようになった。
古賀くんは自分のサウンドポリシーとビジョンをはっきり持っている人で、一緒にプレイしていても最初は少し戸惑ったが、直に彼の意図を汲み取ることが出来るようになって、それからはスムーズだった。

古賀くんはそれまでぼくが一緒にプレイしたどのギタリストとも違っていた。独特の個性溢れるスタイルとフレージングは本当に素晴らしかった。
ぼくは彼の人柄や感性にシンパシーを感じ、次第により親しくなっていった。
古賀くんと初めて一緒にレコーディングした曲は、マキシシングルのカップリング曲だった「BOY」という曲だった。
ぼくはアレンジとピアノとシンセ、アコーディオンをプレイした。ドラムは元フェビアンの熊倉隆くん、ベースは久しぶりに一緒にプレイした池間史規くん、そしてマンドリンを笛吹利明さんに演奏してもらった。

ホリプロダクションが手がけた、ダイヤオ,リウジェ,チャンチェンの中国新世代三人娘と名付けられたグループのレコーディングはとても楽しかった。ぼくはアレンジと演奏で参加。
ミュージシャンは、ドラムに高橋伸之くん、ベースは岡沢茂くん、ギターは高村周作くんにお願いをした。
リズム録りは東京で行い、ホーンセクション等のダビングはアメリカ西海岸のバーバンクで行われた。

他にも多くのレコーディングに参加したが、ぼくの場合はスタジオミュージシャンとして呼ばれていってプレイするというよりも、アレンジやプロデュース込みでプレイすることのほうが圧倒的に多かった。

また久しぶりに松山千春さんからお誘いを受けて、1995年3月26日に札幌で行われた
阪神・淡路大震災被災者支援コンサート「1995HANSHIN AID」に千春さんのサポートバンドとして参加させてもらった。
メンバーは、ドラムス:島村英二 ベース:岡沢茂 ギター:松原正樹、笛吹利明 キーボード:エルトン永田、板倉雅一
5月1日には同じメンバーでフジテレビ系「HEY!HEY!HEY!」ミュージック・チャンプにも出演した。

浜田省吾さんのネット配信による、デジタルカレンダーに付帯する音楽も、少しだけだが担当させてもらった。また浜田さん関連の音楽制作に参加することが出来て、ぼくはとても嬉しかった。

そしてこの時のことがきっかけとなって、再びぼくは浜田省吾さんのレコーディングに参加することになる。

久保田洋司レコーディング。スタジオ・サウンドダリ。

2017/10/04

1993年の出来事

今回は1993年のことを。

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1993年から94年にかけては、ツアーとレコーディングの日々が続いた。
ぼくがツアーサポートで参加したアーティストはinfix、久宝留理子さん、町支寛二さん。
山本英美さん。

93年の前半はinfixのレコーディングで多忙だった。
ぼくは前作に引き続き、彼等の三枚目のアルバムのプロデュースも担当した。レコーディングは前作同様二子玉川のスタジオ・サウンドダリで行った。エンジニアも前作と同じ森元浩二くん。
参加ミュージシャンはinfixの四人+キーボードでぼく+サックスの倉富義隆くん他。
サウンド的には前作からの流れで、アメリカンロックっぽい部分をさらに押し進めた作品になった。

infixの楽器にも新たな顔ぶれが加わって、ベースの野間口くんはヴィンテージのフェンダージャズベースを、ギターの晃くんもヘッドアンプやエフェクター群を一新してレコーディングに臨んだ。
ぼくもこの時期、シンセサイザーやサンプリングキーボード等、機材を大量に導入してサウンド作りに勤しんだ。

今回のアルバムでは新たな試みにもトライした。メンバーによるアカペラの曲や歌のないインストゥルメンタルの曲など、今までとは違う新たなことにチャレンジした。
彼等はメンバー全員がボーカルをとれたので、コーラスはお手のものだった。そこで今回は今まで彼等がやったことのない、ドゥーワップ調のコーラスにもトライしてもらった。

インストゥルメンタルの曲は、ぼくとギターの佐藤晃くんの二人で書いた。ピアノとアコースティックギターだけの曲で、「Innocent Age」と名付けられた。結果この曲はアルバムタイトルにもなった。
アルバムタイトルはぼくが考えて、彼等やスタッフと協議した結果「Innocent age」に決まった。

アルバムに先駆けて4月にシングル「WINNERS FOREVER〜勝利者よ〜」がリリースされた。これはテレビアニメ「機動戦士Vガンダム」のエンディング・テーマに採用されて、スマッシュヒットを記録した。
この曲はシングル・バージョンとアルバム・バージョンではアレンジが異なる。シングルのほうはホーンセクションが入って、より派手な仕上がりになった。

1993年の6月にinfixの三枚目のアルバム「Innocent Age」はリリースされた。

infixのレコーディングが終了すると、すぐに久宝留理子さんのツアーが始まった。
93年になって久宝留理子さんのバンドは何人かメンバーが代わった。
ギターが高村周作くんから富塚和彦くんと長田進くんに、サックスが古村敏比古くんから
スマイリー松本くんにスイッチした。

長田くんとは佐野元春さんのレコーディング以来の再会だった。あの時はレコーディングスタジオでの一度限りのセッションだったが、今回は一緒にライブをやることが出来るので、音を出すのがとても楽しみだった。

久宝留理子さんの93年ツアーは以下の通り。
5月22日 銀座 SOMIDO ホール

5月23日 ヒューマンアカデミー大阪北校

5月30日 新宿 日清パワーステーション

6月8日 大阪 バナナホール

6月10日 新宿 日清パワーステーション

8月7日 神鍋高原特設ステージ

8月8日 名古屋港ガーデン埠頭

9月23日 新宿 日清パワーステーション

8月の神鍋高原特設ステージでのライブは、前日の夕方に東京からバスをチャーターして鈴木雅之さん御一行と一緒に移動した。バスは深夜大阪に到着した。
ぼく達は一旦大阪で宿泊して、次の日の朝早く神鍋高原入りした。

神鍋高原は兵庫県の豊岡市にある広大なリゾート地で、コンサートは野外の広場のようなところに特設ステージを組んで行われた。真夏だったので高原と言ってもとにかく暑かった。
ぼくは自分の楽器や機材が、暑さでどうにかなってしまわないかそればかり気にしていた。

ぼくは9月23日の日清パワーステーションでのライブを最後に久宝さんのバンドを離れた。ぼくにとって久宝さんとのラストライブはとても素晴らしいものになった。

久宝さんのツアーと併行して、7月から始まった町支寛二さんのツアーは前年と同じメンバーで行われた。
スケジュールは以下の通り。

町支寛二「ebb tideツアー」
7月9日  愛知勤労会館

7月15日 大阪厚生年金

7月20日 渋谷公会堂

7月22日 中野サンプラザ

町支さんのセカンドソロアルバム「ebb tide」のレコ発ツアーだった。

他にも山本英美くんのライブサポートや、「夏の日の1993」が大ヒットしていたClassのテレビ出演等のセッションワークもたくさん行った。

93年の後半は横浜銀蝿のボーカル、翔さんのソロアルバムのアレンジを担当した。
レコーディングの打ち合わせのため、ぼくは渋谷からほど近い三宿のとあるバーで初めて翔さんとお会いした。
ぼくの目の前に現れた翔さんはイメージの通り強面で、ぼくはお会いする前からかなり緊張というかビビっていた(笑)
でも音楽の話をしていくうちに段々と緊張もほぐれて来て、翔さんといい感じでレコーディングに入れそうな気がした。

今回、ぼくはアレンジャーとして全体を俯瞰していたかったので、あえて演奏には参加せずスタジオのコントロールルームの中で指揮を執る、プロデューサー的スタンスでレコーディングに臨んだ。

翔さんのレコーディングに参加してくれたミュージシャンは以下の通り。
ドラムス:大久保敦夫
ベース:美久月千春
ギター:高村周作
キーボード:友成好弘

ぼくはミュージシャンの人選も任されていたので、信頼する凄腕のメンバーに参加してもらった。

ドラムの大久保くんは直前の久宝さんのツアーでも一緒だった関係で、久宝さんのツアーが終わるとすぐに直でお願いした。
ベースのミックとはそれまでも何度かスタジオで一緒にレコーディングをしたことがあって、今回のレコーディングでもお願いをした。

ギターの周ちゃんとも千春さんと久宝さんのツアーで一緒だった。今回のレコーディングでも、素晴らしいプレイを披露してくれるに違いなかった。
キーボードの友成くんとは、浜田省吾さんの84年の横浜スタジアムでのコンサートで一緒にプレイをした仲だったので、今回久しぶりに声をかけて参加してもらった。

レコーディングはそんな旧知のミュージシャン達と、主に新宿のスタジオ・テイクワンで行われた。
ぼくは自分のアレンジした譜面を写譜屋さんと呼ばれる、譜面を清書してくれる方から受け取ってスタジオ入りした。
初めての方とのレコーディングの初日はやはり緊張するもので、翔さんも少しナーバスになっているのが伺えた。
スタジオには翔さんと、翔さんのお兄さんである横浜銀蝿のドラム担当の嵐さんも同席していた。

レコーディングのリズム録りは、全員名うてのミュージシャン達なのでスムーズに終わった。後日ストリングスやその他の楽器のダビングを行って、93年11月に先行シングル「色つきの恋がセピアに変わる」が、そして94年の1月に翔さんのソロアルバム「KINGDOM」がリリースされた。

ライブやレコーディングで1993年も慌ただしく過ぎて行った。
ぼくはそれまでフリーの立場で活動してきたのだが、ミュージシャンとしての活動に専念したかったのと、自分でマネジメントを行うことに限界を感じてもいたので、この年の後半からマネージメントオフィスに所属することになった。

また来年から新たな一歩を踏み出すべく、ぼくは気持ちを引き締めて直していた。

1993年8月7日神鍋高原特設ステージ。足元のペダルの数が凄い(笑)