2016/02/27

浜田省吾 #2 1979年、夏

ぼくが浜田省吾さんのバンドに入るきっかけとなった、ラジオの公開録音のピンチヒッターをやることになった時のお話です。

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1979年7月1日、ぼくは甲斐バンドの春のツアーの最終公演を前日の6月30日に千葉県の銚子で終え、甲斐バンドのベーシストだった長岡和広さんと、新宿ロフトへ浜田省吾さんのライブを見に行った。

浜田さんのライブは、以前にも教育会館でのマンスリーライブを見に行ったことはあったのだが、このときはライブの途中からしか見ていなかったので、今回のロフトでの浜田省吾さんのライブがほぼ初めての観戦に等しかった。

このときのバンドメンバーは、以前ぼくの家に遊びに来たメンバーと同じで、ドラムが俊ちゃん、ベースがブンちゃん、ギターが町支さん、そしてキーボードが西本くんという編成だった。

この日のライブはポップでとても楽しいものだった。当時の浜田省吾さんはまだそんなにロック色は濃くなく、ポップな曲とロックな曲が均等ぐらいの割合で構成されたステージだった。

ライブが終わってメンバーと終電までロフトで飲み、西本くんと市川のアパートに帰った。

それから数日後、西本くんから相談を受けた。「あのさぁ、来週浜田さんのラジオ公録の仕事があるんだけど、オレ別の仕事が入っていて行けないんだよね。イタ(ぼくのこと)さぁ、変わりにトラでいってくれないかな?」

公録とは公開録音、トラとはエキストラの略で、いわばピンチヒッターみたいなもんである。
要するに別の仕事で行けない西本くんの代わりに、浜田省吾さんのキーボードをやってくれないか?という要望であった。

「え〜〜!突然そんなこと言われても困るよ。それに来週なんて、オレ曲もよく知らないし、大体向こうに話は伝わっているのかよ?」と西本くんに聞くと、ヤツは「大丈夫、大丈夫、もう話してあるから。」とのたまった。完全に確信犯である。

さぁ、そこから焦ったのはぼくである。もうやらざるを得ない状況が出来上がってしまっている。とそこに浜田省吾さんのマネージャーであるAさんから電話が入った。

「Aです。西本君から聞いていると思いますが、来週の公録よろしくお願いします。場所は有楽町のニッポン放送の1スタ、入り時間は13時でお願いします。楽器はこちらで用意しますのでよろしく。では当日。」
どうやら来週やる曲は4曲らしく「朝のシルエット」「いつわりの日々」等々。慌ててどうにか曲を覚えて、恐る恐るニッポン放送へ向かった。

ニッポン放送の第一スタジオに入ると、すでに楽器がセッティングされていて、先日家に遊びに来たバンドのメンバー達が各の楽器のチェックを始めているところだった。
ぼくもアコースティックピアノと、フェンダーローズ・スーツケースピアノの前に座って楽器のチェックを始めた。

ニッポン放送の第一スタジオは、ぼくにとっては思い出深い場所で、高校を卒業してから同級生だったNと組んだフォークデュオで、ラジオの公募に応募して臨んだコンテストの審査会場だったのもここだし、プロのミュージシャンになってから、初めてライブレコーディングというものを経験したのも、ここニッポン放送の第一スタジオだった。

ぼくにとっては両方ともホロ苦い思い出だったので、このスタジオに入った途端にそのことがワァ〜っと蘇ってきた。

そんな感傷に浸っている間もなく、浜田省吾さんがやってきた。
「やぁ、板倉クン、今日はよろしく!」「こちらこそよろしくお願いします!」

挨拶もそこそこにすぐにリハーサルが始まった。何の番組だったかは忘れたが、とにかく今日は公開録音なので、スタジオにお客さんが入ってのライブになる。

慌ててマスターした4曲すべてのリハーサルが終了したら、ちょっと落ち着いてきた。
やがてお客さんがゾロゾロと入ってきた。そして本番。とても緊張したが何とか無事に演奏することが出来た。

収録が終わってから、みんなでニッポン放送の1階にある喫茶店に行った。
浜田さんがぼくに労いの言葉をかけてくれた。「板倉クン、今日はどうもありがとう。とても良かったよ。」アーティスト本人からそのようなことを言われてちょっと驚いた。

ぼくも浜田さんの曲がとても好きになったので、「こちらこそありがとうございました。また機会がありましたら是非よろしくお願いします!」とお礼を言って別れた。

  •  1979年7月11日、ニッポン放送第一スタジオ。その時のリハーサルの模様。ぼくが弾いているのはもう一人のキーボーディストである一戸清くんのセット。ぼくの本来のポジションはその奥のピアノの場所。