2016/03/27

来生たかお&リンドン 1977年

今回は、この人物と出会わなかったら、今の自分は無かったであろうと言う、ぼくにとって重要なキーパーソンである伊藤薫さんと、少しだけ来生たかおさんのお話も。

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1976年の夏にぼくはCoastという、アメリカ西海岸Rockが好きな連中で結成したバンドに加入して、自分達のバンド活動と並行して庄野真代さんのバックバンドの仕事をやるようになっていた。

真代さんの話はまた別の機会に詳しくするとして、1977年の年が明けて間もない頃、ぼくのところへまだデビューしたばかりの、新人のシンガーソングライターの仕事の話が舞い込んで来た。

その新人とは、来生たかおと言う、ピアノの弾き語りをするシンガーだった。

77年1月18日、渋谷エピキュラスのリハーサルスタジオで、来生さんとの初めてのリハーサルが行われた。編成はアコースティックピアノが来生さん、フェンダーローズピアノがぼくという、二人だけのしかもツインピアノという珍しい組み合わせ。

初めてお会いした来生さんはとても寡黙な方で、最初はぼくも緊張したが、音を合わせながらいろいろな話をして行くうちに、だんだんと打ち解けて行くことが出来た。
1月18、19日の二日間リハーサルを重ねて、1月21日新宿ロフトで初めてのコンサートを行った。

来生さんとの二人だけの編成でのパフォーマンスは、実験的要素も多分に含まれていたためか、1月26日文化放送でのラジオ出演、2月4日横浜三越百貨店でのラジオ関東の公開録音、そして23日の新宿ルイードで行われた、来生たかおとリンドンのジョイントライブで一応満了した。

新宿ルイードで行われた、来生たかおとリンドンのジョイントライブで、ぼくは初めて伊藤薫さんと会った。でも多分この時は挨拶ぐらいしか交わさなかったと思う。

リンドンは福岡出身のスリーピースのロックバンドで、後にARBや甲斐バンドに加入することになるギターの田中一郎、チューリップやオールウェイズのドラマーとして活躍する伊藤薫、リンドン解散後にザ・バッヂを結成するベースの田中信昭が在籍したバンド。
1974年に東芝EMIのエキスプレスレーベルから「陽気な雨」でデビューしている。
伊藤薫さんは後にミュージシャンから転身して、2000年代には浜田省吾のツアーの舞台監督も努めることとなる。

その伊藤薫さんとぼくは77年にバンドを結成した。

2月の新宿ルイードのジョイントライブを終えた直後に、リンドンは解散する。そして次のプランを練っていた薫さんが、ぼくをバンドに誘ってくれた。
どんな経緯でぼくを誘ってくれたのかは、今となっては残念ながらさっぱり覚えていない。ただ薫さんとはブリティッシュポップが好きというところでお互いに意気投合したので、おそらくそのことを薫さんが覚えていてくれて、ぼくに声をかけてくれたのかなと思う。

その新たなバンドはドラム、ベース、ギター、キーボードの四人編成のバンドで、大手の事務所のサポートも付いて、本格的にメジャーデビューを目指していた。

1977年の11月20日〜27日の一週間、山梨県河口湖畔にある「サニーデ」という貸別荘に、4チャンネルのオープンリールのテープレコーダーを二台と、楽器を持ち込んでデモテープを制作した。
別荘のダイニングに楽器をセッティングして、それこそ自分達で食事も作りながらの合宿レコーディングだった。

バンドメンバーは以下の四人。
ドラムス、ギター&リードボーカル:伊藤薫
ベース&ボーカル:根岸カズアキ
ギター:西リュウイチ
キーボード:板倉雅一

そのとき録音した曲は「サンデイ」「君への熱い想い」「こぼれる涙」「君のもとへ」の4曲。薫さんの曲が3曲とぼくの曲が1曲。
ブリティッシュポップっぽいサウンドで、なかなかの出来映えだった。
そして"Hot Menu"というバンドの名前も決まった。ぼくが提案した名前だった。

録音したテープを東京に持ち帰り、さらにダビングを重ねデモテープは完成した。
自信作だったが、諸事情からバンドがデビューすることは叶わなかった。
失意の中、ぼくは目標を無くして、この先どうするか途方に暮れたまま1977年が終わろうとしていた。

(そして物語は『甲斐バンド #1 1978年、春』の記事に繋がって行きます。)

リンドンのデビューシングル「陽気な雨」。右端が薫さん。


35年ぶりに再会した伊藤薫さんと。2012年、葉山にて。