2016/03/21

浜田省吾 #5 ツアーの裏側

1980年から怒濤のコンサートツアーが始まりました。
ステージでは華やかなスポットライトに照らされるミュージシャンですが、ツアーはそれだけではありません。
今回はそんなツアーの裏側のお話です。

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かくして1980年から浜田省吾のコンサートツアーが本格的に始まった。
80年から83年頃はもっともツアーの本数が多かった時期で、年間100〜140本ぐらいのコンサートを行っていた。移動日も含めるとほぼ一年中家にいない日々が続いた。

一週間や二週間の旅は当たり前で、18泊19日とかの旅もあった。
中でも一番長い旅は27泊28日というのがあって、ほぼ一ヶ月の間、家を留守にしていた。
この時ツアースタッフの連中は44泊という、殆ど家に帰れないような暮らしをしていて、それこそロードという呼び名がぴったりくるようなハードな日々を送っていた。

27泊28日の旅の時はたしか日曜日が四回来て、カレンダーを眺めては後何日したら家に帰れるのかなぁ?ということばかり考えていた。

27泊といっても同じ場所に宿泊するわけではなくて、毎日コンサートをしながら次の町へと移動しているわけで、同じ町には多くても二泊程度しかしない。ほぼ毎日違う町で寝泊まりするので朝になって目が覚めた時に、一瞬自分がどこの町にいるのか分からなくなることなど日常茶飯事だった。

この頃のスケジュールはかなり過酷で、三日間連続で町から町へと移動しながらコンサートをやって中一日休みがあって、こんどは四日連続で移動しながらコンサートをやるといったような日々だった。

中一日の休みの日も次の町への移動はするわけで、次の町に着いてその日の夜にコンサートがないというだけで、完全休養日というわけではなかった。
その日をぼく達は移動日と呼んでいた。

移動は飛行機だったり、電車だったり、バスだったり、時には船だったりと、その時に状況によっていろいろだった。
移動は場合によっては数時間〜十数時間かかることもあった。
ぼくは退屈な移動の時間の大半を、読書と音楽を聴くことで紛らわしていた。
当時はスマートフォンもipodも無かったので、もっぱらウォークマンと、自宅でお気に入りの音楽を録音した大量のカセットテープを持ち歩いていた。
しかしこれが半端ない重さで、旅の憂鬱のひとつでもあった。

そしてようやく次の町に到着するとホテルにチェックインして、荷物を部屋に運び込んでやっと移動から解放される。
夜にコンサートが無いというのは気分的にも肉体的にも少しは楽で、ホテルにチェックインした後、それぞれ町に映画を観に行ったり夜は飲みに行ったりして、つかの間の休日を楽しんでいた。

ほぼ連日のようにコンサートは行われるので、体調管理にもものすごく気を使った。
とにかく疲れを溜めないように、風邪を引かないように、怪我をしないように、浜田さんは勿論のこと、ぼくも含めバンドのメンバー達も、人知れず涙ぐましいほどの努力をしていた。
それでも体調を崩すことも当然あるわけで、高熱にうなされながら一人ホテルの部屋で寝ている時が一番辛かった。

毎日コンサートをやれば当然汗をかく。そして毎日着替えもしなければならない。
ツアーに出ると日々溜まって行く洗濯物が悩みの種だった。
しかし溜まって行く大量の洗濯物を、毎回ホテルのクリーニングに出すわけにもいかず、そうなると自分達で洗濯をしなければならない。

短い旅だったら日数分の着替えをもっていけば済むが、長い旅ともなるとさすがにすべての着替えを持って行くわけにもいかないので、ぼく達バンドのメンバーは移動日でオフの日はホテルに到着すると、まずはコインランドリーに行くのが習慣となった。

ホテルのフロントでコインランドリーの場所を聞くと、そこが徒歩圏内の場合は歩いて、それよりも遠い場合はみんなでタクシーに分乗してコインランドリーまで行った。そして溜まった大量の洗濯物をランドリーにぶち込んで、洗濯が終わるまで近所を散策するのがささやかな楽しみでもあった。

大体コインランドリーがある場所というのは繁華街とかではなくて、住宅街の片隅だったり銭湯に併設されていたりと、その町の生活と密着しているようなところにあることが多く、コインランドリーに行くと当然地元の人も来ているわけで、そんな界隈をぶらぶらと散策しながら、町の人々の生活の様子を垣間見る感じがぼくはとても好きだった。

洗濯が終わるまでの間、近くの肉屋でコロッケを買って食べたり、喫茶店でお茶を飲んだりして過ごす何でもない時間が、過酷な旅のオアシスでもあった。

1980年1月20日。金沢への移動の車内にて。
時にはこんなこともして遊んだ。