2016/03/28

いっぺいちゃんのこと

今回は、ぼくが高校生の頃からの知り合いで、後に浜田省吾&The Fuseの一員として苦楽を共にした盟友、いっぺいちゃんこと一戸清さんのお話です。

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ぼくといっぺいちゃんの出会いは1974年、ぼくがまだ高校生だった頃に遡る。
千葉県船橋市のとある高校に通っていたぼくは、学校の同級生と三人組のバンドを結成してオリジナル曲を作ったり、学園祭で演奏したりしていた。

隣町の高校にカッコいいバンドをやっている奴らがいる、という噂をある日ぼくは友達の女の子から聞いた。
「EEF(イーフ)」と名乗るそのバンドは三人組のトリオで、フォークっぽい曲にジャズフュージョンのようなテイストを加えた、ちょっと不思議なサウンドを奏でるバンドだった。
そのジャズっぽいクロスオーバーのようなサウンドを担っていたのが一戸清だった。

EEFのメンバーとぼくの友達の女の子が付き合っていたことから、ぼくはいつの間にかEEFのメンバーだった一戸くんと知り合いになった。

一戸くんはぼくより二つ年上で、黒縁のメガネをかけたちょっとインテリっぽくて、博士のような雰囲気の男だった。

高校の同級生と結成したぼく達のバンドはオリジナル曲も増えて来て、どうせならラジオ番組で募集しているコンテストに応募してみようという話になった。
そこで知り合いの中で、唯一オープンリールのマルチトラックレコーダーを持っていた一戸くんの家で、デモテープを録らせてもらうことになった。

1974年、昭和49年当時にオープンリールのマルチトラックレコーダーを持っている人はそう多くなかった。
一戸くんの家にはTEACの4チャンネルのマルチトラックレコーダーがデン!と鎮座していて後光を放っていた(ように見えた)。

一戸くんの家で頑張って録音させてもらったデモテープを、カセットテープにダビングしてラジオ番組のコンテストに応募した。
結果はあえなく落選、一次審査にも引っかからなかった。まぁ当然と言えば当然なのだが(笑)。

それはさておき、その頃千葉県北習志野にぼく達がよくたむろしていた「Beatle」という喫茶店があった。
Beatleにはフォルクスワーゲン・ビートルの愛好家や、地元のアマチュア音楽サークルの連中がたくさん出入りしていた。
Beatleのご子息のUさんも、たしか「Joy Of Wednesday」というすごくいかしたバンドをやっていて、そのウエストコーストっぽいサウンドに、ぼくは密かに憧れていた。

Beatleでも一戸くんとはよく一緒になった。
地元のアマチュア音楽サークル主催のコンサートで、ぼく達のバンドと一戸くんのEEFが一緒になることもあった。
しかしぼくと一戸くんは、好きな音楽もプレイスタイルも全く違っていたので、この先も彼と一緒に演奏することはきっと無いだろうと、その頃は思っていた。

それからしばらく一戸くんとはあまり会う機会がなかったのだが、何年か後にぼくも一戸くんも、ミュージシャンの卵のような活動をするようになっていた。
そんなある日、突然彼から電話がかかって来た。
熱海の温泉旅館でのハコバンの仕事の電話だった(詳しくは熱海の記事を参照)。

そこからさらに数年後、ぼくと一戸くんは思わぬ所で再会を果たす。そう、浜田省吾さんのバンドである。
1979年7月、ぼくと一戸くんはほぼ同時期に浜田省吾バンドに加入することになった。
おそらく一緒に演奏することは無いだろうと思っていた人物とのまさかのツインキーボード。
しかもぼくがピアノで一戸くんがオルガン。何か不思議な縁を感じた。

浜田省吾1979年の秋のツアーから、1984年2月19日にNHKホールで終了したファースト・フィナーレツアーまでの約4年半の間、本当に苦楽を共にした。
79年〜80年当時はまだ浜田さんのコンサートも、すべての箇所でソールドアウトというわけではく、場所によってはかなり空席の目立つところも多かった。時には千数百人収容の会場に、二百人に満たない観客しか入っていない前で演奏したこともあった。

過酷な移動や悪条件の宿泊施設等、決して楽な環境での旅ではなかったけれど、とても楽しくてしかたがなかった。
特にThe Fuseと名乗るようになってからの、第二期のメンバーは本当に仲が良くて、ツアーの間のつかの間の休日を利用して、メンバーだけでプライベートで海外旅行に出かけたりもした。

しかし、83年のツアーあたりから何となくメンバー間に、目に見えない溝のようなものが出来始めているのを、みんな薄々感じ始めていた。
何百本ものツアーを共にした馴れ合いのような、そうで無いような、何とも言葉では言い表しがたいムードが漂い始めた。
かと言って決して仲が悪くなった訳ではない。もし仲が悪くなったら、何百本ものツアーを一緒に廻ることなど到底不可能だ。

ぼくといっぺいちゃんは当時住んでいる家がすぐ近所で、ぼくの家から歩いて数分のところにいっぺいちゃんは住んでいた。
当時独身だったぼくは、すでに妻帯者だったいっぺいちゃんの家に、よくご飯をごちそうになりに行った。バンドのメンバーもいっぺいちゃんの家に、ことある毎に良く集まった。

ツアーに出かける時にも一緒によくタクシーで羽田空港まで行った。
ツアーが終わって羽田に到着してからの帰りも一緒だった。

84年の2月にファースト・フィナーレツアーが終わって、The Fuseは解散というか自然消滅した。
84年4月に横浜スタジアムで開催された、浜田省吾「A Place In The Sun」は、The Fuseからはぼくと古村敏比古くん、町支寛二さんの三人だけが残った。ベースの江澤くんはゲストプレイヤー扱いでの参加だった。

The Fuse脱退後の一戸くんは、映像制作会社を設立して活躍していた。ぼくも電話やメールで話すことはあったが、実際に会う機会はなかなか無かった。

数年前にSNSを介して、また一戸くんとの繋がりが復活した。
近い内に再会を約束したばかりだった。

2014年10月28日、一戸清くんは永眠した。まだ60歳の若さだった。
結局84年の2月19日が彼との最後の日になるなど、その時は夢にも思わなかった。

2014年11月2日、横浜の瀟洒な教会で彼と再会した。
30年ぶりに会ったいっぺいちゃんは、昔と変わらず優しい顔でまるで眠っているようだった。

いっぺいちゃんありがとう、安らかに。

北習志野のBeatle。1974年頃。
いっぺいちゃんと。1981年頃。

1981年頃。