2016/04/13

浜田省吾 #13 The Fuse幻のデモ

先日、ぼくがパーソナリティを担当している鎌倉FM『サウンドグローブ』の中で、The Fuseの幻のデモテープというのをオンエアしました。
今回はThe Fuseのお話です。

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1982年3月22日姫路市文化センターから始まった浜田省吾春のツアーは、7月30日の茨城県民文化センターまで、計73本のコンサートが組まれていた。

今回のツアーではコンサートの中盤にThe Fuseのコーナーというのが設けられていて、ぼく達バンドは毎回二曲のオリジナル曲を演奏する機会に恵まれた。

一曲はぼくが歌う「明日になれば」、もう一曲は町支さんが歌う「光と影」。
コンサートは二部構成のような形になっていて、一部と二部のつなぎのような位置付けでThe Fuseのコーナーがあった。

ツアー初日、82年3月22日姫路市文化センターのセットリストは以下の通り。

1.愛の世代の前に    
2.土曜の夜と日曜の朝
3.ラストショー
4.愛という名のもとに
5.モダンガール
6.陽のあたる場所

7.The Fuse「光と影」
8.The Fuse「明日になれば」

9.二人の夏(アカペラ)
10.朝のシルエット
11.街角の天使            
12.涙あふれて
13.とらわれの貧しい心で      
14.独立記念日          
15.ハイスクールR&R       
16.東京
17.明日なき世代           
18.On The Road 
             
アンコール1           
19.壁に向かって           
20.終わりなき疾走 
         
アンコール2            
21.青春の絆

コンサートが始まり、ぼくはThe Fuseのコーナーが近づくにつれ、心臓の鼓動が高まっていくのを感じていた。

6曲目の「陽のあたる場所」の頃になると、緊張のあまり吐き気も襲って来た。
何しろツアー初日の緊張に加えて、The Fuseとして人前で歌うのも初めて。

ぼくはダブルの緊張のあまり、どこかに逃げ出したくなる衝動をこらえ、何度か大きく深呼吸をした。

やがて「陽のあたる場所」が終わると、浜田さんのThe Fuseを紹介する掛け声で一曲目の「光と影」が始まった。

この曲のリードボーカルはギターの町支さん。さすがの歌の上手さである。それにひきかえボーカルに全く自信のないぼくは、堂々たる町支さんの歌を聴いてますます逃げ出したくなった。

「光と影」が終わり、とうとうぼくが歌う「明日になれば」の番が来た。こうなったらもう開き直るしか無い。
再び大きく息を吸い、気持ちを落ち着けて、ぼくはイントロのピアノのフレーズを弾き始めた。

すると不思議なことに、さっきまでの吐き気もす〜っと引いて、徐々に落ち着いて来た。
一番を歌い終える頃には、何だか楽しくなって来た。
どうにか歌詞も間違えずに、ぼくは無事に歌い終えることが出来た。

当時ロンドンレコードという、外資系のレコード会社があった。
主に洋楽部門を中心に展開していたが、社内には邦楽部門もあり、RCサクセション、忌野清志郎+坂本龍一等が在籍していた。
そのロンドンからThe Fuseのレコードを作らないかという話があって、僕たちはデモテープのレコーディングを行った。

1982年10月20日、中野にあった「サウンドスカイ中野スタジオ」でレコーディングは行われた。奇しくもぼくの26歳の誕生日の日であった。

レコーディングエンジニアは、はっぴえんどのドラマーで作詞家の松本隆さんの弟さんの松本裕さん。そうそうたるアーティストの作品を手がける、名うてのエンジニアである。

デモテープ制作のために、ぼく達に与えられた時間はこの日一日だけ。
一日でリズム録りから楽器のダビング、ボーカルとコーラス録り、トラックダウンまですべてを行わなければならなかった。

レコーディングした曲は「光と影」と「明日になれば」の二曲。
この年の春のツアーで何十回と演奏して来た曲なので、楽器のレコーディングはスムーズに終わった。

問題はボーカルだった。町支さんは慣れたもので、さっさと歌入れを済ませて涼しい顔をしていた。

ぼくはそういう訳には行かなかった。
元々ボーカルに自信が無いうえに、「明日になれば」はとても音域の広い曲だった。
自分で作ったのに、自分のボーカリストとしての力量を全くを考えていなかったため、とんでもなく音域の広い曲になってしまった。

ぼくの声質は町支さんのようにパンチもスピード感も無かったので、歌をダブルトラックで録ることにした。ダブルトラックとは同じことを二回歌ってそれを重ねて再生する技法のことで、声の線の細いボーカリストなどは、このダブルトラックで録音することが多かった。

ボーカルをダブルにしたことで何とか聴けるレベルの歌になってきた。
それでも自分の声と歌を聴くのはあまり好きではなかった。

ボーカル録りを終え、今度はコーラスのダビングに移った。
The Fuseの面々は、浜田さんのコンサートで散々鍛えられていたおかげで、コーラスワークはお手のものだった。
スムーズにコーラス録りは終了して、残すはトラックダウンの作業だけとなった。

トラックダウンとは24chのテープに録音した個々の音を、バランスや音質を整えながら最終的に2chにまとめる作業のことで、ここでの仕上がり次第で良くも悪くもなる。
ミックスダウンやミックスと言ったり、TDと略して呼ぶこともあった。

どんなに素晴らしい演奏やボーカルが録音されていたとしても、トラックダウンの仕上がりが良くないと、台無しになってしまうことも往々にしてある。よってトラックダウンの作業は、エンジニアの腕の見せ所でもあった。

トラックダウンはエンジニアの孤独な作業で、ある程度音が整理されてからでないとぼく達は何もやることが無い。
そこでぼく達はスタジオの階下にあったビリヤード台で遊んで時間をつぶした。

数時間後、エンジニアの松本さんからトラックダウンが完了したとの知らせが入った。早速出来上がった音を聴かせてもらった。ドライブ感と迫力のある素晴らしい仕上がりだった。
ぼく達はすごくいかしたサウンドにとても満足だった。
最後に細かい箇所の修正をして、The Fuseの記念すべきデモテープは完成した。

後はレコード会社の判断を仰ぐだけだった。ぼく達はデモテープの出来に自信があったので、吉報が届くのを信じていた。
しかし諸般の事情が重なって、ロンドンレコードからのデビューは叶わなかった。

浜田さんのツアーの日々に忙殺されるうちに、何となくデビューの話もフェイドアウトしていった。他のレコード会社を当たるという手段もあったが、ぼく達はそうしなかった。
デモを録音した二曲の他にもオリジナル曲は何曲かあったが、それ以降の展開は無かった。

83年になるとツアーの本数は更に増え、バンド内に目に見えない違和感のようなものが、少しずつ芽生え始めているのをメンバー全員が薄々感じ始めていた。

『ファースト・フィナーレ』と題された83年秋のツアーは、これでバンドが終ってしまうことが分かっていたので、勿論コンサートはベストを尽くして臨んでいたが、それ以外の部分では正直あまり良い思い出はない。と言うかあまり思い出せない。

そして1984年2月19日、NHKホールでのファースト・フィナーレ最終公演をもって、The Fuseの歴史も幕を閉じた。

もうこのメンバーでのサウンドを奏でる事は永遠に叶わぬ夢となった。

岡山のイベンター「夢番地」が発行していたThe Fuseの機関誌「Fuse fan」。