2016/05/01

浜田省吾#17  1983年1月24日郡山市民会館

現在に至るまでぼくはおそらく千回以上のライブに出演してきましたが、今まで一度も穴を空けたことはありません。賞とはあまり縁の無い音楽人生ですが、これだけはぼくの矜持です。
しかし時には這うようにしてステージに出たこともあります。
今回はそんな話を。

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浜田省吾1982年秋のツアーは年を跨いで、翌83年2月22日の大阪フェスティバルホールまで続いた。
1月20日から始まった上越〜東北の旅は、20日長岡市立劇場、21日新潟県民会館、22日宮城県民会館、24日郡山市民会館と続く5泊6日の旅だった。

22日の仙台公演のあたりから何となく風邪っぽいなと思っていたぼくは、これ以上悪化させないように細心の注意をはらっていた。オフだった23日は極力ホテルで安静にしていた。
冬のホテルの部屋はとても乾燥するため、加湿器を全開にしてバスタブにもお湯をはり、部屋が乾燥しないようにし、市販の風邪薬を飲んで一日中寝ていた。

しかし深夜にひどい悪寒に襲われた。悪寒でほとんど眠れずに朝を迎えた。
朝になってベッドから起きようとすると、身体が震え全身の関節が痛む。
身体を暖めなければと思い入浴してみるも、悪寒が酷くて浴槽に入っていられない。
入浴することをあきらめ、フロントで体温計を借りて熱を測ってみた。みるみる温度があがって行く。39度近い熱があった。

この日は郡山市民会館でのコンサートがある。会場入りまではまだ少し時間があったので、病院に行くことにした。
ひとまず浜田さんのマネージャーに事情を説明して、フロントで教えてもらった病院に駆け込んだ。

ホテルから病院までは歩いて数分の距離だったが、高熱のためふらふらして歩けない。
病院までの距離が数十倍にも感じた。
ようやく病院に着いて受付を済ませるも、院内は診察待ちの患者で超満員。
いくら待てども一向に順番が回ってくる気配がない。あまりにしんどいので待合室の長椅子に横たわらせてもらってひたすら順番を待った。

待つこと約3時間、ようやくぼくの番になった。
この時すでに時間はお昼を回っていた。会場入りまであまり時間が無い。
診察の結果はやはり風邪の症状とのこと。とにかく薬を飲んで安静にしているようにと言われた。
しかしこの後コンサートが行われる。バックのミュージシャンが風邪で発熱したぐらいでは、コンサートを中止するわけにはいかないのである。

ぼくはドクターに事情を話して懇願した。「先生、そんなわけでコンサートに穴を空けるわけにはいかないんです。お願いですから本番の二時間の間だけ生かして下さい!」
ドクターはあきれた顔で言った。「そんな無茶言って貰っちゃ困るよ。コンサートなんてやったら肺炎になりますよ。無理だから休ませて貰いなさい。」

ぼくは藁をもすがる気持ちでお願いした。「先生、それは無理です。お願いですから二時間だけ!」
「しようがないなぁ。では一応解熱の座薬と頓服、あと注射を打っておきます。但し無理をして肺炎になっても責任持ちませんよ。」

ぼくは注射二本と点滴を受け、薬を貰ってホテルに戻った。
しかし高熱が下がる気配はなく、とてもじゃないがリハーサルをやれる状態ではなかった。
マネージャーに連絡して、本番ギリギリまでホテルの部屋で休ませてもらうことにした。

それから少しの間、ぼくは座薬と薬を飲んで泥のように眠った。
開場時刻の6時を過ぎた頃、イベンターが用意してくれた車に乗って会場入りした。時刻はすでに6時30分近くになっていた。薬のおかげで熱は38度前半に下がっていたが悪寒は続いていた。

楽屋に着くと代わる代わるメンバーが心配してくれた。
どうにか衣装に着替え横たわっていると、浜田さんが心配そうな顔で寄って来た。
「板さん、大丈夫?熱は?」ぼくはリハーサルをキャンセルしてしまったことをまず詫びた。
「リハ出られなくてすみませんでした。何とか大丈夫です。」
「そう、でも無理しないようにね。コーラスとか辛かったら町支に任せてくれていいから。」
「はい、でも大丈夫です。何とか歌えると思います。」「分かった。じゃ本番よろしく。」

実は全然大丈夫じゃなかった。
熱と薬で朦朧としていたぼくは、本番が始まってからも何をやっているのかよく分からないほど最悪の体調だった。コーラスのパートを歌おうとするたびに、吐き気が襲って来て気が遠くなりそうになる。

リハーサルが出来なかったため、PAチームがぼくのモニターを最適の状態に調整してくれていた。
ピアノはスタッフが代わりに弾いてバランスを整えていたくれた。
そんなスタッフの心遣いも無駄になるほど、ぼくは本番中に何をやっているか分からないような状態だった。

それでも何とかコンサート終え、楽屋に戻ってくるなりぼくはその場に倒れ込んだ。
しかしこの日は終演後、新幹線で帰京の予定だったため、倒れ込んでいる暇は無かった。
すぐに支度をして出なければならなかったため、急いで着替えを済ませ楽屋口で待機していたタクシーに乗り込んだ。
郡山の駅に着いて新幹線に乗り込むとぼくはすぐに目を閉じた。

当時は新幹線が大宮止まりで、そこから上野駅まではリレー号という列車に乗り換える必要があった。大宮駅でリレー号に乗り換え、やっと深夜の上野駅に到着した。
するとずっとぼくの様子を見ていた浜田さんが、今夜は俺の家に泊まれと言った。
ぼくは家に帰っても一人なので申し訳ないと思いつつも、浜田さんの家に泊めてもらうことにした。この頃、プライベートなことで沈み込んでいたぼくを見かねた、浜田さんなりの優しさだった。

浜田さんの家に到着するなり、またしてもぼくは泥のように眠った。

次の朝、目が覚めると体調はだいぶ良くなっていた。
朝食をごちそうになり、もう大丈夫なのでお暇しようとすると、ちょっと出かけるが程なく戻るので、それまで犬を看ていて欲しいと言われた。
ぼくはしばらくの間、浜田家の犬と一緒に暖かな部屋でまどろんでいた。
やがて戻って来た浜田さんに丁重にお礼を言い、日も暮れた頃自宅に帰った。

家に戻ったぼくは空腹な事に気がついた。近所の定食屋でサンマの塩焼き定食を食べた。
ちょっとしょっぱいサンマの塩焼きを食べながら、なんだかぼくは急に泣けて来た。

1982年頃。どこかの楽屋にて。