2016/05/30

浜田省吾 #21 プリプロ顛末記

1984年、浜田省吾のアルバム「Down By The Mainstreet」のレコーディングに向けてのプリプロ作業が始まりました。
今回はその顛末記です。

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84年の春、浜田省吾とThe Fuseからの残留メンバーは、ニューアルバムのプリプロダクションの為に、河口湖畔の貸し別荘で数日間の合宿を行うことになった。
ぼく達は車数台と楽器を積んだトラックで河口湖のコテージに到着した。まだ寒さの残る日だった。

そのコテージは河口湖沿いの人気(ひとけ)のない森の中に何棟も点在していた。
すでにあたりは日も沈んで暗くなってきていた。
さっそくぼく達はコテージに楽器を運び込んでセッティングを開始した。
ようやく楽器のセッティングが完了して軽く音を出して諸々確認をしてみた。さしたる問題もなく一通りの楽器の音が出た。
ようやく一息ついて、これから数日間の合宿プリプロに向けて士気も高まってきた矢先、浜田さんから爆弾発言が飛び出た。
「何かさぁ、ここって思ってた感じとちょっと違うなぁ。フィーリングが合わないと言うかさぁ…。ん〜〜…やっぱり帰ろう!!」

えぇぇぇぇ〜〜〜〜!!???

「やっと楽器のセッティングも済ませたばかりなのに帰るってマジっすかぁ??」
誰からともなくほぼ同時にみんなの口から似たような言葉が出た。
どうも浜田さんはこの場所とコテージの感じがしっくり来ないらしい。

「せっかく楽器もセットしたのに悪い!、ホント申し訳ないけどここではやりたくないんだ。」確かそんなような内容のことを浜田さんは言った。
本人がやりたくないというのを引き止めるわけにも行かず、ぼく達は渋々組んだばかりの楽器をバラし始めた。結局河口湖には一泊もせずにその日のうちに東京に戻った。

河口湖でのプリプロがドタキャンになって、さてどうしたものかと思っていたところに、またしても浜田さんから爆弾が投下された(笑)
「板倉の家は部屋が何個かあったよね?リビングも広いし。そうだ!板倉の家でプリプロやろう!!」

えっ!?…えぇぇぇぇ〜〜〜〜!!???
何ですってぇぇ〜!?

「マジっすかぁぁ!?ホントにオレんちでやるのぉ?」
「そう。我ながらグッドアイデアだと思わない?」ニヤッと笑いながら、勝ち誇ったように浜田さんは言った。
「全然グッドじゃ無い無い!!そんなの無理だよぉ〜!」困惑しながらぼくは答えた。
「ん〜、にゃ!もう決めたから。みんなもそう思わない?」浜田さんは一度決めたらテコでも動かないと言った様子で、みんなにも同意を求めた。
「そうね、板さんちだったらみんな近いし、環七沿いだからちょっとぐらい音出しても大丈夫そうだし、眺めも良いしいいかもね。」とかなんとか、みんなで調子のいいことを言って、強引にぼくの家でプリプロをやることに決めてしまった。
かくして河口湖での合宿から一転、ぼくの家で浜田省吾の新曲のプリプロが行われることとなった。

1984年某月某日、浜田さんとバンドメンバー、スタッフはぼくの家に集結した。
これから数日間に渡って新曲の骨格を練り上げて行くのだが、ぼくは自分の家でプリプロが行われることが心配で何か落ち着かなくて仕方がなかった。

当時住んでいた僕の家は環七沿いの13階建てのマンションで、ぼくの部屋は10階の角部屋だった。
間取りは2LDKで、六畳の部屋が二部屋と約15畳程度のリビングダイニングが付いていた。
割と高台に建っているマンションだったので、部屋の窓からは素晴らしい眺望が堪能出来た。
ベランダからは羽田空港に発着する飛行機や、空気の澄んだ日には房総半島までもが見えた。
夜になると新宿の高層ビル群や東京タワーの夜景等がとても綺麗だった。

そんな部屋に後に浜田省吾のモニターエンジニアを担当することになる、ヒビノ音響のMくんとルームシェアする形で住んでいた。
そしてMくんが仕事で留守な時に合わせてプリプロの日程が組まれた。

曲のアレンジを担当する者が中心となって、三つの部屋に別れて作業が始まった。
例えばAという曲のアレンジは町支さんと浜田さんで六畳の部屋、Bという曲のアレンジはぼくと江澤くんでもう一つの部屋、Cという曲のアレンジは古村くんでリビング、といったような感じで部屋ごとに作業が同時進行していった。

そしてある程度アレンジの骨格が出来たら、みんなで楽器を持ってそれぞれの部屋に集まり、軽く演奏して確認してみたりした。
さすがに部屋にドラムは持ち込めないので、ドラムはドラムマシーンを使って代用した。
あっという間にぼくの家は、楽器やケーブル、譜面等々がそこいらじゅうに散乱して足の踏み場も無いような状態になった。
そんな作業の様子を事務所のスタッフは、こたつに入ってみかんなど食べながら眺めていた(笑)

ギターやベース、ピアノやサックス等、控えめながらも実際に音を出して作業していたので、遂にぼくが心配していた事態が起こってしまった。
下の階の部屋と隣の部屋からクレームが来た。そりゃそうだ。防音も何も無い部屋で一斉に音を出して作業しているのだからうるさくないわけが無い。

それでもぼく達は隣人からのクレームにめげることなく、数日間のプリプロを敢行した。
夜になってその日の作業が終わると、近くの店にみんなでご飯を食べに繰り出したりした。
さすがにぼくの家で合宿は出来ないので、みんな自分の家からの通いだったが、何だか学生のクラブ活動のようでとても楽しかった。

そして新曲の骨格が完成したところで、ぼく達は今度は河口湖の貸別荘ではなく同じく河口湖にあるレコーディングスタジオで、数日間に及ぶ新曲のレコーディングを行うため、再び河口湖に向けて出発した。
いよいよニューアルバム「Down By The Mainstreet」のレコーディングが始まった。
しかしここでまた新たな問題が発生することとなる。

以下続く。

1984年頃。