2016/05/20

初期のセッションワーク

今回はぼくがプロミュージシャンになりたての頃のセッションワーク等のお話を。

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初めてミュージシャンらしき仕事をやったのは1975年、ぼくがまだ19才になるかならないかの頃だった。
高校を卒業して、恵比寿にあったヤマハのネム音楽院の分室に通っていたぼくは、何となく学校に通い、何となくあてども無く日々を過ごしていた。
プロのミュージシャンになるという壮大な目標を掲げてはいたものの、どうしたらプロのミュージシャンになれるのかさっぱり分からなかった。

ネム音楽院での授業に飽き飽きしていた頃、千葉のアマチュアサークルの仲間のシンガー・ソングライター「ひるたたつろう」がプロとしてデビューすることになった。
ひるたたつろうは「ミルキー・ウェイ」というフォークデュオで、リードボーカル&ギターがひるたたつろう、ボーカル&ギターが坂元昭二のコンビとして、日本コロムビアから「ひと駅だけの別れ」という曲でデビューすることになった。
 「ひと駅だけの別れ」は作詞がりりィ、作曲が下田逸郎という豪華なコンビの曲だった。

ちなみにひるたたつろうはミルキー・ウェイ解散後に、元GAROのマーク(堀内護)と「バースデイ」というデュオを結成するが、デビューする前に解散してしまった。
坂元昭二は後にさだまさしバンドのギタリストとして活躍をする。「北の国から」のアコースティックギターも坂元の演奏である。

ぼくはアマチュアサークル仲間のひるたたつろうさんに誘われて、ミルキー・ウェイのバックバンドに参加することになった。
ドラム、ベース、エレキギターもぼくの高校のバンド仲間が担当することになった。
ミルキー・ウェイのバックバンドは、ぼくも含めてまだみんなとてもプロとは呼べないような連中だった。
それでも猛練習をして、このメンバーで何回かの学園祭等に出演した。小額だがギャラも貰った。
そう言った意味ではミュージシャンとして初めてお金を稼いだ仕事だった。

その後、熱海バンドを経て1976年、ぼくはCoastというバンドに参加した。
Coastはバンド名のとおり、アメリカ西海岸ウエストコーストサウンドを下敷きにしたバンドで、イーグルスやドゥービー・ブラザースのようなバンドに憧れていた。

そのCoastでデビューしたての女性シンガー、庄野真代のバックバンドを担当することになった。
庄野真代とは約一年ちょっとの間、一緒に活動した。
コンサートで全国をワゴン車に乗って廻ったり、テレビやラジオにも数多く出演した。

同じ時期にCoastはミス花子という、大阪のシンガーのライブレコーディングにも参加した。
1976年に「河内のオッサンの唄」が80万枚の大ヒット、その勢いでライブアルバムを制作することになり、そのバンドにぼく達Coastが抜擢された。場所はニッポン放送の第一スタジオ。お客さんを入れての公開録音だった。
ちなみにミス花子は女性ではなく、男性シンガーである。

ぼくはそれまで正式にレコード盤となったレコーディングは経験したことが無く、ミス花子のライブレコーディングが初めてのレコーディング体験となった。
しかもこのミス花子のライブレコーディングは、2チャンネル録音の一発録りというやり直しの効かないシステムでのレコーディングで、非常にプレッシャーのかかるレコーディングだった。
一発録りのため、演奏を間違えたらそのまま録音されてしまう。
この時の模様は後にLP「ミス花子実況録音盤」としてコロムビアから発売された。
ぼくのレコーディングデビューアルバムでもあった。

Coastは短期間ではあったが、古井戸のバックも担当した。
古井戸は、加奈崎芳太郎と仲井戸麗市のフォークデュオで、チャボこと仲井戸麗市は後にRCサクセションに加入し大活躍をすることとなる。
この頃の古井戸はCBSソニーに移籍して、音楽性もフォークからロックに転換するような時期で、Coastがバックを担当した時もすでにかなりロックっぽいサウンドになっていた。

印象的だったのは仲井戸麗市さんのギターで、古井戸のナンバーをやっていても、もうすでにRCサクセションのような雰囲気を漂わせていた。というか、本人はローリング・ストーンズのような感じのサウンドがやりたかったのだと思う。
古井戸とは何回かのステージを共にしただけだったが、ぼくは古井戸とのセッションでとても刺激を受けた。

他にもCoastでバックを担当した主なアーティストは以下の通り。

・坂田修
・やまがたすみこ
・東てるみ
・大塚博堂
・あおい輝彦

上記の方々とのセッションはワンマンコンサートだったり、一回限りのバッキングだったりと様々だった。
そして77年にリンドンの伊藤薫さんとのバンドを経て、甲斐バンドのサポートへと繋がって行く。

78年頃には伊藤銀次さんと知り合い、ぼくは伊藤銀次バンドにも加入することになった。
伊藤銀次さんと言えば、元シュガーベイブで、元ごまのはえ改めココナツ・バンク、大瀧詠一、山下達郎とのナイアガラ・トライングル等、輝かしいキャリアの持ち主でぼくの憧れの人でもあったので、銀次バンドへの加入は本当に嬉しかったし光栄なことだった。

その銀次バンドでデビューしたての松原みきのバッキングを担当することになった。
1980年頃から松原みき&カステラ・ムーンというバンド名で、各地のコンサートやイベント、テレビ、ラジオにも出演した。
バンドメンバーは以下の通り。

ドラムス;田桑一朗
ベース:岡島BUN
ギター:伊藤銀次
キーボード:西本明、板倉雅一
サックス:エリック
コーラス:イエロー・シスターズ

キーボードはぼくと明くんの二人。甲斐バンドのツアーと同じだった。
そして二人とも浜田省吾、佐野元春、尾崎豊等に関わることとなる。

伊藤銀次さんはぼくをいろんな現場に誘ってくれた。
松原みきさんは勿論のこと、佐野元春、友部正人のレコーディングやコマーシャルのレコーディング等々。

19才〜20代前半の武者修行があったからこそ、今に繋がっているのだとつくづく思う。
そしてその頃に出会った人達や様々な出来事こそ、ぼくのかけがえのない財産なのだ。

ぼくが初めてレコーディングを経験したミス花子のライブアルバム。