2017/05/15

松山千春 #1 新たな船出

浜田省吾さんのバンドを脱退したぼくは、松山千春さんのツアーに参加することとなります。今回はそんな話を。

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1989年の春に浜田省吾さんのバンドを正式に脱退したぼくは、当然ではあるがいきなり何も仕事が無くなってしまった。この先どうするか何のあてもないまま脱退してしまったため、早急に新たな仕事を探す必要に迫られた。とはいうもののこの時点では本当に何のあても無かった。

ひとまずぼくは片っ端から知り合いのミュージシャンや業界の方々に電話をした。
当時のぼくはマネージメント・オフィス等に所属していなかったため、全くのフリーランスとして活動していた。

いろんな人に連絡をした結果、何件かのオファーをいただいた。
その中のひとつに、知り合いのミュージシャンから松山千春さんのバンドがキーボード奏者を探しているという話があった。
なんでも千春さんのバンドがメンバーを一新するらしく、他のパートは決まったのだがキーボードだけがまだ決まっていないとのことだった。
ぼくは是非とも推薦してくれるよう、知り合いのミュージシャンに頼んだ。

後日千春さんのバンドのリーダーの方から、是非参加して欲しいとの連絡をもらった。多少の不安はあったが、ぼくは松山千春さんのバンドに加入することになった。新たな船出の始まりだった。

ツアーは4月からスタートとのことで、すぐにリハーサルが始まった。
ぼくは浜田さんのバンドを脱退した感傷に浸っている場合ではなくなった。

千春さんのバンドでのぼくの担当はピアノではなく、シンセサイザー関連を受け持つことになった。
これはぼくの方からリクエストをした。長年浜田さんのバンドでピアノを弾いていたことと、当時のシンセサイザーブームも手伝ってか、ぼくはそれまでと違うポジションにチャレンジしてみたかった。

千春さんのバンドに加入した最初の頃は、あまりの環境の変化に戸惑うことばかりだった。
中でもいちばん驚いたのは、千春さん本人がリハーサルに殆ど現れないことだった。千春さんは北海道在住のため、上京した際にリハとゲネプロ(本番さながらの通しリハーサルのこと)をまとめて行うようなシステムになっているとのことだった。
よって、本人不在の間のリハーサルの進行は、バンドリーダーに一任されていた。

リハーサルを重ねるにつれ、次第に現場の雰囲気とバンドメンバーとも打ち解けて来て、ぼくは徐々にペースを掴む事が出来た。
新たなパートであるシンセサイザー周りも、音作りの楽しさとピアノとはまた違ったアンサンブルの深さに魅了されていった。
バンドメンバーも素晴らしいミュージシャンばかりだった。

1989年4月2日、松山千春の春のコンサートツアー「蒼き時代の果てに」がスタートした。全国31カ所34公演というスケジュールが組まれていた。
千春さんのコンサートツアーは毎年春と秋の二回行われていて、夏はイベントが数本というスケジュールが組まれていた。
4月から始まったツアーは、ツアー途中で急遽ピアニストが交代するというハプニングもあったが、それ以外は順調にぼくも乗り切ることが出来た。

春のツアーが終了して、7月の終わりに仙台泉パーク・スポーツガーデンという斜面を利用した会場で、松山千春の野外イベントが行われた。
ぼく達バンドは前日に仙台入りした。するとその日に同じ場所でロバータ・フラックのコンサートが行われているということを聞いて、ドラムの小林くんと観に行った。芝生に寝転んで夏の夜風に吹かれながら聴くロバータ・フラックのコンサートは最高だった。

8月は山形県米沢市営競技場、岩手県市営花巻野球場、山形県酒田市北港特設ステージ、新潟小針浜特設ステージで野外コンサートが行われた。真夏の野外コンサートは暑さとの戦いでもあったが、どの会場も開放的な雰囲気でとても楽しかった。

10月からは秋のツアー「ISHI」がスタートした。
12月末の札幌公演までの全国36カ所41公演のツアーだった。

ぼくは89年の春に浜田省吾さんのバンドを脱退し、松山千春さんのバンドに加入してから約80本のコンサートを行った。浜田さんのコンサートと合わせると89年は約100本のコンサートを行ったことになる。浜田さんのバンドを脱退した時、身も心も疲れ果てていたぼくだったが、結局あまり休む間もなく、また例年と同じような生活に戻っていた。それでも違った環境に身を投じたことに、ぼくは疲れよりも充実感を感じていた。

年が明けて1990年の1月に、全国の厚生年金会館で行われた「松山千春スペシャル・コンサート」が開催(全国7力所7公演)された。
この東京公演が行われた新宿厚生年金会館でのコンサートの楽屋に、浜田省吾さんが訪ねて来てくれた。
約一年ぶりの浜田さんとの再会だった。結果的にあまり後味の良くない去り方をした(と当時自分ではそう思っていた)ぼくに、浜田さんが会いに来てくれたことがぼくは無性に嬉しかった。いや、ひょっとしたらそうではなくて、浜田さんは松山千春さんに会いに来たのかもしれなかったが、それでもぼくは嬉しかった。

浜田さんは最後までコンサートを観て行ってくれた。千春さんも浜田さんが来てくれたことが嬉しかったようで、コンサート中のMCでも浜田さんが来ていることを告げていた。
終演後、再び楽屋に来た浜田さんは、ぼくに良い演奏だったと声をかけてくれた。その後浜田さんと千春さんが談笑している姿を見ていたぼくは、何とも言い表しようのない複雑な気持ちになった。

松山千春の90年春のツアーは、4月19日から32本のスケジュールが組まれていた。
ツアーが始まって中盤を過ぎた初夏のある日、ぼくは浜田さんと二人で逢う機会があった。

浜田さんとしばらくいろんな話をした後、ニューアルバム「誰がために鐘は鳴る」の話題になった。浜田さんはぼくに尋ねた。「板さん、出来たばかりの今度のニューアルバム、聴いてくれた?」「はい、聴かせてもらいました。とても素晴らしい作品だと思いました。ただ聴いている内に胸が痛んで苦しかったです。」ぼくは正直な感想を述べた。

ぼくは今回のアルバムの内容と自分を投影して聴いていた。当時のぼくにはどうしてもそういう風に聴こえてしまうような作品だった。
「そうか。」そのことに関して浜田さんは多くを語らなかったが、ちょっと寂しそうな表情で笑ったのがとても印象に残った。

千春さんのツアーに帯同するようになって1年が過ぎ、多忙で充実した日々を送りながらも、どこか心にぽっかりと空いてしまった穴が埋まるための時間が、まだまだぼくには必要だった。

1990年頃、本番前の楽屋にて。何故か虚ろな表情(笑)