2017/06/17

松山千春 #3 1991年

今回は1991年の出来事です。

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1991年は松山千春のツアーに明け暮れた一年だった。
春のツアーは全国28カ所31公演、秋のツアーは全国29カ所32公演だった。

千春さんのバックバンドはメンバーの入れ替わりが激しく、毎ツアーごとに誰かが代わっていた。
バンドメンバーはみんな気の良い連中だったが、中でも89年の秋のツアーから加わったギターの高村周作くんは、ぼくと年も一つ違いで気も合い、好きな音楽も似ていることから、千春さんのツアー以外でも彼とはいろんな現場で長きに渡り一緒にやることとなった。

高村周作くんは、日本を代表するスーパーギタリストである松原正樹さんに師事したギタリストで、千春さんのバンドに加入する前は、長渕剛、加藤登紀子、さだまさし等のツアーやレコーディングに参加していた。もちろんギターのプレイも素晴らしくて、ぼくは千春さん以外のライブやレコーディングでもたくさんお世話になった。

他に一緒に千春さんのツアーを廻った主なメンバーは、リーダーでギターの丸山ももたろう(政幸)さん、ピアノの大石学くん、サックスの園山光博さん、倉富義隆くん等々。

ピアノの大石くんは本来はジャズ畑のピアニストで、自身のリーダーバンドを率いてバリバリに活躍していた。普段彼がやっているジャンルと、千春さんの音楽とはかなりかけ離れているのだが、不思議と大石くんのピアノと千春さんの歌は抜群に相性が良かった。

サックスの園山光博さんは、ぼくよりも少し年上のジェントルマン。
勿論プレーヤーとしても一流で、後に小田和正さんのバンドに加入して現在も小田さんと一緒に活動している。

倉富義隆くんは、桑田バンドや小比類巻かおる、鈴木雅之等のツアーでサックスを吹いていた気鋭の若手プレイヤー。カレーが大好物で、朝に宿泊先のホテルのレストランに入ると、必ずカレーを食べている倉富くんと遭遇した。

そして松山千春さんは、世間一般が思い描くパブリックイメージとは違って、とてもナイーブで心優しい方だった。ことあるごとにぼくにもよく気を遣ってくれた。

松山千春91年春のツアーが終了して、秋のツアーまでの夏の間に、ホテルでのディナーショーの開催が決まっていた。
デビュー15周年を記念しての初のディナーショー開催だった。
このディナーショーのために、日本屈指のミュージシャンを集めてのスペシャルバンドが結成された。

松山千春デビュー15周年記念ディナーショーのために招聘されたミュージシャンは
ドラムス:島村 英二
ベース:長岡 道夫
エレキギター:松原 正樹
アコースティックギター:笛吹 利明
キーボード:エルトン 永田
キーボード:板倉 雅一
パーカッション:木村 誠
サックス:金城 寛文

+ストリングス12名(チェロ、ビオラ、バイオリン)

指揮&編曲:飛澤 宏元

という錚々たるメンバーが集結した。
そして何故かそこにツアーバンドからぼくだけが抜擢された。

ドラムの島村さんは”吉川忠英&ホームメイド”や、カントリーロックバンド”ラストショー”のドラマーからスタジオミュージシャンに転身した方で、以前ぼくも浜田省吾さんのアルバム「Down By The Mainstreet」の中のぼくがアレンジした曲(Daddy's Town等)で、島村さんにドラムを叩いてもらった。
他にも吉田拓郎、大瀧詠一、松任谷由実等々、数えきれない程のライブやレコーディングに参加している日本屈指のドラマー。

ベースの長岡さんは”SHOGUN”のベーシストとして有名な方で、他にも中島みゆき、大瀧詠一、中森明菜、松田聖子等々のレコーディングでも活躍されている重鎮ベーシスト。

エレキギターの松原さんは、”ハイ・ファイ・セット”のバックバンドからキャリアをスタートさせ、林立夫、斉藤ノブ、今剛らとフュージョン・バンド”パラシュート”を結成。スタジオミュージシャンとしては今までレコーディングに参加した曲が1万曲を超えるという、素晴らしいギタリストである。

アコースティックギターの笛吹さんは長渕剛とのタッグが有名であるが、スタジオミュージシャンとしてもさだまさし、南こうせつ、谷村新司等々、挙げていったらキリが無い程のレコーディングに参加しているレジェンド。
以前ぼくが編曲した浜田省吾さんのレコーディングで、何曲か笛吹さんにアコースティックギターを弾いてもらった(Pain等)。

キーボードのエルトン永田さんは、松任谷由実のバックバンドからキャリアをスタートさせ、中嶋みゆき、吉田拓郎等々のツアー、レコーディングに参加している日本を代表する素晴らしいキーボーディストの一人。

そんなとんでもないミュージシャンの方達と、幸か不幸かぼくは一緒に演奏することとなった。
メンバーの中でぼくが面識のあったミュージシャンは、島村さん、笛吹さん、サックスの金城さん(浜田省吾82年の武道館ライブの時のサックス奏者)松原さん、パーカッションの木村さんの4人だった。

ディナーショーのためのリハーサルは僅か二日間だけ。
しかも譜面はリハーサル当日にならないと完成しないとのことだった。
出来れば事前に譜面と音源をもらって、予習をしておきたかったぼくは、リハーサル当日まで落ちつかない日々を過ごした。

やがてリハーサルの日がやってきた。不安と緊張の中、ぼくはリハーサルが行われる港区の湾岸沿いにある芝浦スタジオに向かった。
芝浦スタジオはレインボーブリッジのすぐ近くの埠頭沿いに建つスタジオで、すぐ目の前が海だった。海と行っても砂浜ではなく、護岸工事がなされたお世辞にも綺麗とは言えない海だった。

ぼくは緊張の面持ちでスタジオのドアを開けた。と、そこにはすでに何名かのミュージシャンが到着していてロビーで談笑していた。
ロビーの片隅のテーブルの上に、今回のディナーショーで演奏する曲の譜面がパートごとに分類されて、A4サイズの茶封筒に入って置かれていた。
ぼくは挨拶もそこそこに、すぐさま自分の名前が記された封筒を手にとり譜面の確認のために、リハーサルが行われるスタジオの中に入った。
その時ぼく以外に他に誰一人として、譜面の入った分厚い封筒を開けようとするミュージシャンはいなかった。みんな譜面には目もくれず、相変わらずロビーで談笑を続けていた。

広いスタジオの中は、すでにローディーによって楽器がセットされていた。
ぼくは数台のキーボード群に囲まれた自分のポジションに腰掛けると、さっそく譜面を広げた。スタジオの中にいるミュージシャンはまだぼく一人だけだった。

写譜屋さんの手によって綺麗に清書された譜面には、びっしりと音譜が書き込まれていた。コード譜ではなくいわゆる書き譜というやつだった。
初見があまり得意では無いぼくは、びっしりと書き込まれた譜面を見てかなり焦った。音譜を読譜して確認すると同時に、それに適したキーボードの音色も作らなければならない。
ぼくのパートはシンセサイザーがメインだったので、各フレーズの音色選びもかなり重要な要素の一つだった。

ひとりでアタフタしながら譜面と音色に格闘しているところに、ようやく他のメンバーがスタジオに入って来た。
それぞれのミュージシャンのポジションに置かれた譜面台の上には、スタッフの手によって譜面の入った茶封筒が置かれていた。
みんなは自分のポジションに付くと、そこで初めて一曲目の譜面を広げた。
すると間を空けずに指揮&アレンジの飛澤さんが一言言った。「じゃあ、一度最初の曲をやってみようか。」

ドラムの島村さんのカウントで一曲目の「燃える涙」が始まった。いきなりの完璧な演奏だった。ぼく以外のみんなは初見の譜面にも関わらず、涼しい顔をして(少なくともぼくにはそう見えた)演奏していた。
ぼくは日本屈指のミュージシャン達の力量と、曲への理解力と懐の深さに圧倒されていた。ぼくはみんなに付いて行くので精一杯だった。

一曲を一回するとほぼ完璧なため、すぐに次の曲に行く。そんあ調子で次々とリハーサルは進行していった。
数時間に及ぶリハーサルが終わった後、ぼくはホッとしたのと同時に今まで味わったことの無い疲労感に襲われていた。

1991年8月5日、松山千春デビュー15周年記念ディナーショーが、東京帝国ホテルで開催された。チケット料金は当時としては破格の5万円だった。高額にも関わらず、すでに全ての会場でチケットはソールドアウトしていた。

ぼく達バンドはショーの際にタキシード着用が義務付けられた。幸いなことにぼくは、数年前にタキシードを購入していたので事なきを得た。

ショーの前にお客さんには豪華なディナーが振る舞われた。ぼく達には普通の仕出し弁当が配給された(笑)

ディナーショーはとても華やかな雰囲気の中、無事に終了した。
来場したお客さんには記念として、松山千春オリジナルブランドのワインが配られた。

少しの緊張と戸惑いの中、初めてのディナーショーでの演奏は、終わってみればとても楽しい体験だった。何より素晴らしいミュージシャン達と一緒に演奏出来たことが、ぼくはとても嬉しかった。

ディナーショーは大阪と名古屋でも開催された。
8月7日がホテルニューオータニ大阪、8月9日が名古屋キャッスルホテルでの開催だった。そして翌92年1月15日、アンコール公演として同じメンバーで、福岡県甘木市ホテルセンチュリーヒルズでのディナーショーが開催された。 

名古屋でのディナーショーが終わった後、夏のイベントの締めくくりとして、8月24日に宮城県の多賀城緑地公園大代グランドで松山千春野外コンサートが行われた。バックバンドはいつもツアーバンドのメンバーに戻った。

9月は秋のツアーのリハーサルが行われた。
そして10月から始まった秋のツアーの合間に、ぼくは千春バンドのドラムの小林くん達と、鈴鹿サーキットで開催されたF1グランプリレースを観戦しに行った。中嶋悟選手の国内でのラストランでもあった。結果はリタイアに終わってしまったが、ぼくは中嶋選手のラストランを観ることが出来て満足だった。

秋のツアーのラストは、恒例となったクリスマスイブの北海道厚生年金会館での公演だった。今年ラストの札幌での公演で、千春さんのバンドは一旦解散することが決まっていた。
約3年弱の間、ぼくは千春さんのツアーを経験したことで、また一つステップアップすることが出来たと感じていた。

この年の札幌は雪のホワイトクリスマスだった。
無事にすべてのコンサートを終え、最後の打ち上げも終わり、夜も更けた雪の降り積もるクリスマスの札幌の街を、達成感と寂寥感を感じながら、ぼくはあてども無く彷徨っていた。

1991年夏、楽屋にて。