2020/07/27

引っ越しの変遷Part.3

1984年の初夏、ぼくは世田谷の野沢から経堂に引っ越しをしました。
今回はそのあたりのことを。

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野沢のマンションを出ると決めた時から、ぼくは駒沢や三軒茶屋、下北沢などの不動産屋を何軒も訪ね歩いた。
今のように手軽にインターネットで検索出来るような時代ではなかったので、ひたすら足で探すしか無かった。それでもなかなかこれはという物件に巡り会うことは出来なかった。

ある日ぼくは三軒茶屋から出ている二両編成の世田谷線に乗って、山下駅で降りて豪徳寺あたりの不動産屋を訪ね回ってみた。 このあたりは野沢とは違ってとても静かで、大きな家もたくさん立ち並ぶ閑静な住宅街だった。
世田谷線で三軒茶屋からでわずか10分ちょっとしかかからないところなのに、ぼくは随分と遠くまで来てしまったような気がしていた。

数件目に訪ねた世田谷線松原駅近くの不動産屋で、興味をそそられる物件があった。ぼくはその部屋を見せてもらうことにした。

目当ての部屋は小田急線の経堂駅から徒歩10分弱ぐらいのところにある、建物の一部が赤堤通りに面した五階建ての少し古びたマンションだった。

ぼくは不動産屋さんとそのマンションの狭い階段を上って、三階部分にある部屋を見せてもらった。 玄関ドアを開けるとすぐに10畳程のリビングがあって、左手に3畳程度のキッチン、反対側に8畳の和室と、5畳ぐらいの洋室がある2LDKの間取りの部屋だった。
加えて洋室のベランダ部分には、2畳程度のガラス張りのサンルームが付いていた。

ちょっと建物は古いけど、ぼくはこの部屋が気に入った。家賃も手頃な値段だったのと、だんだんと部屋探しに疲れてきたこともあって、もうこれ以上他の部屋を内見することなく、ぼくはこの部屋を契約することにした。

部屋が決まるとすぐに引っ越しの準備に取りかかった。Mくんに引っ越すことを告げると彼は憮然としていたが、またもすでに決めてしまったことだったので、Mくんには申し訳なかったが、どうにか納得してもらった。

ぼくは2トントラックを借りて、何回かに分けて野沢と経堂を往復した。野沢から経堂までは環七から赤堤通りを経て車で約30分程の距離だった。
引っ越しの日にはバンドのメンバーも助っ人として来てくれたおかげで、大変だったけど業者に頼むことなく引っ越しを完了させることが出来た。

初めて住むことになった世田谷区の経堂という街は、同じ世田谷区内とはいえ、辺りにはまだ畑が点在する落ち着いた場所で、野沢からは随分と奥に引っ込んでしまったような気がした。
野沢に住んでいた時は、電車は東急新玉川線を利用していて、渋谷から駒沢大学駅まで10分程度の距離だったのが、経堂までは新宿から小田急線で20分ぐらいかかるようになった。しかも当時は急行が経堂駅には停まらなかったので余計に遠くに感じた。

車で移動する際も、野沢の時は環七の内側に住んでいたのが、経堂に来て環七の外側になった。と言うか経堂のマンションからはもう環八のほうが近いくらいだった。
マンションの前を通る赤堤通りから大きな幹線道路に出るまでには、赤堤通りが片側一車線の道路だったこともあってか、結構時間がかかるので、都心に出るのはかなり不便を感じるようになった。
それでも経堂の駅前にはそれなりにお店もたくさんあって、生活するには何不自由することはなかった。

しかしいざ実際に住んでてみると、古いマンションのせいか、両隣と上の階からの生活音がいろいろと聞こえて来て、当時昼夜逆転のような暮らしをしていたぼくは、生活音が気になってよく眠れなくて、だんだんとイライラするようになっていった。

それとこれも住んでみてから分かったことなのだが、マンションのすぐ近くに牧場があって(四谷軒牧場。1984年当時は経堂に牧場があった。翌年の1985年に閉鎖。)牧場からの独特の匂いが部屋まで忍び込んで来て、段々とそれも気になるようになって来た。
後日その牧場に行ってみるとちゃんと牛がいた。ぼくは東京23区内に牧場があることに驚いた。

仕事のほうは、The Fuseが消滅して新たなメンバーで臨んだ、横浜スタジアムでの「A place in the sun」を終えて、すぐに浜田省吾さんのニューアルバム「Down by the Mainstreet」のレコーディングが始まった頃で、ぼくは経堂から河口湖のスタジオや、信濃町や六本木のスタジオに足繁く通った。

「Down by the Mainstreet」収録の「Pain」は、この部屋の洋室にこしらえた仕事部屋でアレンジ作業をした。Painは一度河口湖でベーシックトラックを録音したのにも関わらず、後日そのテイクはボツになってしまった。

Painの他にも「Money」も河口湖でのテイクはボツになった。
ぼくはもう一度頭をニュートラルにして、Painのアレンジを考えることにした。 どこが良くなかったのか、またどこを変えれば良くなるのかをじっくりと考えてみた。

するとだんだんと闇の隙間から光が差し込むような感じで、少しずつ新たなアレンジが出来上がって来た。 イントロの出だしの部分のコードを「F#m add9」という物悲しい響きのするコードに変えたことで一気に視界が開けて、それから先はさほど苦労することなくアレンジを完成させることが出来た。リアレンジしたPainのレコーディングは、今度は順調に終えることが出来た。

経堂に引っ越す前にぼくは車を買い替えた。今度の車はホンダのバラードCR-iという4ドアのスポーツセダン。経堂のマンションの裏に駐車場を借りて停めていた。

「Down by the Mainstreet」のレコーディング中に、ぼくは不注意から仕事部屋の机の角にこれでもかというくらい足をぶつけて、足の小指を骨折してしまった。
幸いなことに骨折したのは左足だったので、オートマチックの車を運転するには支障が無く、ぼくは松葉杖をつきながらレコーディングスタジオに通った。
スタジオでも左足骨折が幸いして、ピアノのペダルを踏むのにはやはり支障がなく(ピアのサスティンペダルは右足で踏む)なんとか演奏することが出来て、ぼくはホッと胸を撫で下ろした。

経堂で暮らすようになって約四ヶ月が経った頃、ぼくは経堂のマンションを引き払うことにした。 理由はやはりちょっと不便なことと、其処彼処から聞こえて来る生活音に耐えられなくなったからだった。

たった四ヶ月しか住まないで部屋を出るのはかなり金銭的にも痛かったが、精神的にも参ってしまっていたので、瀬に腹は代えられなかった。

たちまちぼくは引っ越し貧乏になった(笑)

続く。

アルバム Down by the mainstreetのレコーディング風景。
at 河口湖スタジオ1984